「よど号」機長の転落人生 英雄扱いから一転、2度目の愛人発覚で日航退職…最後に救いの手を差し伸べたのは

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19歳年下女性と岡山で自家製の漬物屋

 家族とともに大阪府岸和田市に移った石田は、知り合いの紹介で大阪の建設会社の自家用飛行機の専属パイロットを務めた。その後、札幌に単身赴任して不動産会社の専属パイロットとなった。操るのは、旅客機ではなく小型のセスナ機。客を乗せて上空から土地を見せるのが仕事だった。

 その後、岡山に戻りビーチクラフト機販売会社の営業マンになったが、いずれも一年契約であったり会社が倒産したりで、勤めは長く続かなかった。

 そして窮地の中で始めたのが、漬物屋だった。札幌時代に知り合った、19歳年下のススキノのホステスを呼び寄せ、岡山市内で自家製の漬物屋を開業したのである。漬物屋をやろうと言い出したのは女性の方だった。石田自身も東北地方出身で、漬物好きだったことから、その提案に乗ったという。

 銀行から金を借りて小屋を改造し、石田は見よう見まねで漬物を始めた。漬けるのはもっぱら彼の仕事で、女性が地元スーパーの一角を借りて販売を担当した。朝6時から夜11時まで、1人でもくもくと漬物をつくり続ける日々である。

救いの手を差し伸べたのは家族だった

「漬物石は重いし、とにかく重労働だった。軌道に乗りかけたこともあったけど、儲かる商売じゃない。資金が足りなくて、夜、種鶏場のアルバイトをしたこともありました」(「週刊新潮」同号)と、石田は語っている。

 漬物屋は約8年続いたが、赤字続きで借金は増えるばかり。やがて女性は生命保険の営業ウーマンとして働きだし、石田に別れ話を持ちだした。

 ちょうどその頃、病魔が彼を襲った。違和感を覚えていた喉に、ガン(舌ガン)が見つかったのだ。石田は阪大で手術を受けた。歯を全部抜き、舌先の一部を切り取るという大手術だった。命は取りとめたが、以後しゃべることが少し不自由になった。

 病に倒れ、女性とも別れ1人となった機長に、救いの手を差し伸べたのは家族だった。長年、家を出たきりで、家族を顧みることもなかった父親だったが、娘たちが家に戻るよう説得したのである。そうして昭和61年、石田はようやく家族の元へ戻った。

 すでに63歳になっていた。

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