すでに遺体は腐乱しきっていて…文豪・有島武郎が人妻と“軽井沢心中”した理由と遺書の中身
取り巻く女性たちはいずれも美人
大学時代には、哲学的な論争から学友と自殺を試みるなどナイーブな行動を見せていたが、その穏やかな風貌とは裏腹に、小説の作風は力強く、後に親から譲り受けた農場を解放するなど、大胆な行動力も持ち合わせていた。
妻の死後、独身を通していたが、女性に関しては噂が多かった。噂にのぼった中には、気鋭の歌人だった与謝野晶子もいる。彼を取り巻く女性たちは、女優たちを含め、いずれも美人で、有島は“面食い”であるという評判も高かった。
当時有島は、「私の妻を迎へぬ理由」という談話を、「婦人画報」大正12年4月号に掲載している。彼はまず、自分が「芸術を愛好するやうに女性を愛する」女性賛美者であることを宣言し、一緒に生きて行きたいと思う女性が現れたらどうするかという問いに対して、そんな場合も結婚はしない、「何故なら結婚することによって、お互の自由が妨げられ、その為に愛の永続を得ることが出来なくなるからである」と、説明している。
“略奪婚”の美人記者
その有島が愛するようになった波多野秋子は、ある実業家が新橋の芸者に生ませた非嫡出子で、実践高女を経て青山学院に進学した才女だった。在学中、波多野春房が開いていた英語の塾に通い、恋愛関係が生じて結婚するが、当時春房には妻がおり、言わば“略奪婚”ともいえるものだった。
その後、25歳で卒業すると中央公論社に入り、創刊2年目の「婦人公論」の記者になった。目のさめるような美貌の持ち主で、敏腕な美人女性記者として文士の間でたちまち評判になった。室生犀星によると「眼のひかりが虹のやうに走る感じの人」であったという。
2人が親密な関係になったのは、大正11年の冬頃からだった。当初は秋子の方が積極的に有島に近づいたが、やがて2人は深く惹かれ合うようになる。
しかし秋子が人妻であることから、大正12年3月、有島は一度秋子との関係を断つことを決心し、「而してあなたと私とは別れませう。短い間ではあつたけれども驚くほど豊に与へて下さつたあなたの真情は死ぬまで私の宝です」という手紙を書き送っている。
芽生える「情死への思い」
しかし結局2人は関係を断ち切れず、ある旅行のことが波多野春房の知る所となり、有島は波多野の事務所に呼び出される。そこで有島は波多野から、“秋子をゆずってもよいが自分は商人だから只ではやらぬ、金を支払え。払わなければ姦通罪で訴える”という通告を受ける。
有島は女を金に換算する要求には応じられないと拒否、回答を保留する。それが大正12年6月6日のことだった。
具体的には、この話し合いが情死へのきっかけとなったとされているが、その年の2月には、友人に当てた手紙の中で、「この頃は何だか命がけの恋人でも得て熱いよろこびの中に死んでしまふのが一番いい事のやうにも思はれたりもする」と書いている。まだ切羽つまってはいないが、その頃から有島の中に情死への思いが芽ばえていたことが窺える。
2人の決断は早かった。話し合いの後、有島は友人に情死をほのめかす言葉を残すと、6月8日の午後、新橋駅で秋子と落ち合い、母親あてに「急に旅をしたくなったから二、三日旅行をする」という葉書をしたため、汽車に乗って軽井沢に向かった。別荘で縊死を遂げたのは、翌日の未明である。
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