朝6時の起床から夜の営みもすぐ脇で監視され…徳川将軍が送っていた“プライバシーなし”究極の日常生活とは

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就寝時さえ小姓が両側に添寝した

 やっと朝食の膳が下げられると、政務がはじまる。宿直の側役があいさつに現れ、彼らが取り次いで老中や若年寄など幕府の要職に就く大名が、様子をうかがいに来ることもあった。そして、ふたたび大奥に出向き、神前で礼拝したあとで中奥に戻った。

 その後は若干のリラックスタイムで、普段着に着替えることが多かったようだが、とはいえ、ぼんやりしているわけにはいかなかった。午前中の残りは、将軍が自身を鍛錬する時間で、儒学者の講義を聴いたり、歴史書に目を通したりした。あるいは、剣術指南役の指導のもとで剣や弓や槍の訓練をした。乗馬の訓練も行われた。

 すでに、ずいぶんいろんなことをした感があるが、まだ正午である。昼食は大奥でとったり中奥でとったり、まちまちだったらしい。そして午後を迎えると、ようやく政務の時間になる。ここからは、将軍の身の回りの世話をする人たちはいったん退却し、御側御用取次役の役人の補佐のもと、書類に目を通すのだった。その内容を御側御用取次役が読み上げ、将軍が問題なしと思えば決済され、問題ありと思えば突き返されることもあった。

 それが終わると、3時のおやつタイムではないが、自由時間が訪れた。その間は書画を楽しんでも、乗馬に勤しんでも、世話役たちを相手に興じてもよかった。

 だが、こうした時間は短い。夕方になると入浴だ。それも一人での入浴は許されない。湯が運ばれてきて、湯殿係の小納戸向きが将軍の体を洗った。6時ごろからが夕食で、これも昼食同様、大奥で食べることも、中奥で食べることもあった。

 そして10時ごろに就寝。布団が敷かれるのは御休息之間上段で、周囲には警護の者や不寝番が多数配置され、将軍の両側にも御側寝の小姓が二人寝た。将軍自身は、こうした生活が当たり前なので慣れていたかもしれないが、寝室においてさえプライバシーがなかったのである。

夜の営みもすぐ脇で監視されて

 最高権力者で専制君主でもあった将軍だが、このように、その日常に自由はほぼなかった。暴れん坊将軍のように気ままに城を抜け出し、日夜とおして自由に過ごせる余地などまったくないのが、現実の将軍の日常だった。

 では、夜に大奥の御台所や側妾のもとに渡れば、閉ざされた空間で、だれにも監視されずに過ごせたのだろうか。同じ大奥でも、御台所のもとに渡ったときはまだマシだったと思われるが、側妾と一夜をすごすときは、現代の感覚からはまったく理解できないが、プライバシーなど少しも顧みられなかった。

 というのも、大奥では将軍の側妾に選ばれた奥女中が、将軍に政治関係の頼みごとをすることを非常に嫌った。古今東西、女の色香に惑わされて政治的判断を誤った為政者の話はさまざまに伝えられている。だから大奥でも、将軍が側妾に情をかけるあまり、判断ミスをしないように警戒したのだ。しかし、それはわかるとしても、防止するための方法は、もはやぶっ飛んでいるとしかいいようがない。

 将軍の側妾に選ばれる奥女中は、原則として中臈と呼ばれる身分の者だった。そして、一人の中臈が将軍の寝床に呼ばれたときは、他の「御添寝」が必須だったのである。すなわち、将軍が中臈と夜の営みをしている最中、別の中臈がすぐ横に寝ることになっていた。そして襖一つ隔てた次の間には、中臈より身分が高い御年寄が寝て、翌朝、御添寝をした中臈は、将軍らが行為のあいだに交わしていた言葉を、御年寄に報告したのである。

 もはや、なんとも奇妙な世界だとしかいいようがない。波乱万丈の末に将軍になった家康や、その職をすぐに継いだ秀忠のころとは、将軍の暮らしは大きく変わっていた。幕府の官僚組織の整備が行き届いたなかで政務を執行した太平の世の将軍は、専制君主でありながらも制度の歯車の一部として、窮屈な日常を送るしかなかった。

 こんな日常のありようを聞かされて、将軍に生まれたかったと思う人は、あまりいないのではないだろうか。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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