最後の日本兵「小野田寛郎さん」帰国から50年 性格分析や説得班の編成も…政府機密文書で明かされる“救出作戦”の全容
第2段階は強制救出
それでも応じない場合、第2期の捜索救出作戦、いわゆる〈強制救出〉に切り替えるという。その際、報告書は、
〈小野田元少尉の性格は粘着性気質で且つ強い耐性をもつていると考えられるので、綿密な捜索を実施して本人に強い心理的圧迫が加わつても、自決の可能性は少ないものと思われる。しかし、万一の場合も考えられるので本人が強い危機意識をもつことを防止するため接触拠点は安全な場所ないしは退避場所として、捜索中も継続設置しておくことが極めて必要であろう〉
と指摘する。また、強制救出では望ましい人員の条件にも言及している。
〈搜索班員は登山技術と体力のある者が選出されるべきである。(中略)捜索は、小野田元少尉が居住している可能性が高いビゴ川上流の半径約2kmの地域を中心にして綿密、徹底的に実施することが必要であろう〉
これらの地域について、
〈全面積が125平方キロメートルである。よつて捜索班員100名が5m間隔で毎日1000mずつ歩いて捜索した場合約2週間で捜索可能と思われる。したがって降雨による中止その他のことを考慮しても3週間あれば上記地城の綿密な捜索は可能で小野田元少尉の生活痕跡は最小限発見可能であろう〉
と見ていたのだ。
捜索を遠巻きに見ていた
後に、小野田さんは、著書『わが回想のルバング島」の中で、この大規模捜素について、
〈この大捜索に参加してくださった方々は実に大勢いる。私が直接確認できたのは、まず兄弟四人中、次兄、姉、弟の三人だ。(中略)小中学の同級生のグループでは、海上からの捜索のうち一艇は確認している〉
と、捜索隊を遠巻きに見ていたことを告白している。彼らの呼び掛けや説得に応じなかった理由については、
〈その原因の第一は、与えられた命令に準拠した私の未熟な戦略的判断によって、私があくまで敗戦を信じなかったためであることは論を待たない〉(同)
小野田さんは、報告書で〈はつきりした粘着性気質〉と書かれたが、我々の想像を遥かに上回る強靭な精神力の持ち主だったのだ。
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綿密な検討が行われていた小野田氏の救出活動。残念ながら捜索は空振りに終わったが、結果的には49年の帰国が実現した。巷では連日のトップニュースとなり、様々な意見や感想が飛び交う。一方で日本政府は、フィリピン政府への見舞金について話をまとめていた。後編では見舞金の支払いが検討され始めた時期やその意図、金額の算定、フィリピン側が見せた意外な反応など、驚きの後日談をお届けする。