拷問係の男たちが「長いこと手こずらせやがったな」…プロレタリア作家・小林多喜二が築地警察署で虐殺されるまで

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文学と革命の狭間で

 多喜二の拓銀入行直後から、世情は混迷の度を深めていた。大正14年には言論・思想の自由を縛る治安維持法が成立。一方、日本共産党が秘密裏に結成されるなど、無産政党も相次いで誕生した。

 昭和3年、多喜二は、全日本無産者芸術連盟の機関紙「戦旗」に、労組や無産政党への弾圧事件を題材にした「一九二八年三月十五日」を発表し注目され、その後も「蟹工船」「不在地主」などの左翼的な作品を相次いで発表、共産党シンパのプロレタリア作家としての地歩を固めた。

 同時に、挑発的な小説を世に送り出し続ける多喜二に反感を抱く官憲との対決姿勢も、鮮明になっていった。昭和4年、多喜二は拓銀から解雇され、翌5年に上京して活動を本格化させる。

覚悟をしていろと伝えておいてくれ

 上京後、多喜二は新聞や雑誌で小説や評論を発表する傍ら、誕生間もない日本プロレタリア作家同盟の中央委員となり、各種講演活動にも没頭。官憲に徹底的にマークされ、逮捕、投獄の日々を送るようになった。昭和6年には共産党に入党し、地下活動に入る。

 このころ共産党は、天皇制打倒を明確に打ち出すようになっていた。多喜二の同志だった作家・江口渙は、特高警察幹部から当時、次のような言葉を聞かされたと、後に書き残している。

「小林多喜二のやろう。もぐっていやがるくせに、あっちこっちの大雑誌に小説なんか書きやがって、いかにも警視庁をなめてるじゃないか。こんど連絡があったら、このことだけははっきり小林に伝えておいてくれ。――いいか。われわれは天皇陛下の警察官だ。共産党は天皇制を否定する。(略)そんな逆賊はつかまえしだいぶち殺してもかまわないことになっているんだ。小林多喜二もつかまったが最後いのちはないものと覚悟をしていろと、きみから伝えておいてくれ」(昭和47年8月10日号「別冊新評」)

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