「裕次郎とオレと3人で、日本映画の斜陽化を遅らせることはできたはずだ」…小林旭が語った21歳「伝説のスター」の衝撃的な死

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裕次郎、小林旭に続く看板

 赤木圭一郎は、東京・麻布出身。6人きょうだいの4番目で、父は歯科医だった。疎開先の鎌倉で育ち、昭和33年、鎌倉高校から成城大学に入学。その年の夏に日活第4期ニュー・フェイスに応募して日活に入社する。

 当時は、日活映画の黄金時代だった。小林旭の回想。

「昭和30年代の日活に火を点けたのは裕次郎だった。特に、昭和33年以降の裕次郎の人気は半端じゃなかったね。そのスケールの大きさに、他の奴はもうそのつなぎ役でしかない。いやつなぎにもならないほどだった。なら、日活生え抜きの子飼いで、頑丈な小林旭を使えって、いいように働かされたよ。35年なんか裕次郎が年間4本のところ、オレはその倍以上は撮っていたからね。

 要するに火を点けたのが裕次郎で、それを炎として燃え盛らせる役目をしたのがオレかな。そこに赤木が頭角を現してきたんだ。もう一枚の赤木という看板の出現で、会社に休みなしで働かされていたオレは、やれやれ、これで少しは休めるぞ、楽になれるぞって思ったよ」

 昭和35年、日活は石原裕次郎、小林旭、赤木圭一郎、和田浩治の4人で“日活ダイヤモンド・ライン”を形成し、映画界を席捲した。

日本映画界の斜陽

 そのダイヤモンド・ライン参加の第1作が「拳銃無頼帖 抜き射ちの竜 」 (1960年 )で、これがヒット。以後、「拳銃無頼帖」はシリーズ化され4作が作られる。最後の作品は「紅の拳銃 」(1961年)で、事故はその封切3日後に起きたのだった。

 赤木の死とともに、日活の、そして日本映画の黄金期に翳りが見え始める。

「結局、30年代後半の『渡り鳥』シリーズを最後に、日活はロマンポルノに路線を変更していくことになるわけだが、赤木が生きて、あのまま育っていれば状況は間違いなく変わっていたろうよ。

 例えば、昭和40年代の頭に、裕次郎とオレと赤木の3人で何かを仕掛けたかもしれない。そこへ渡(哲也)とか高橋(英樹)が入ってきて支える。そんな映画界に活を入れるような、新たな屋台骨を築くような計画を実行したかもしれないね。少なくとも、日本映画界の斜陽化を遅らせることはできたはずだよ」(小林旭)

 その死はまさに時代を画するものであったのだ。

黒井克行(くろい・かつゆき)
1958年北海道生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、出版社勤務を経てノンフィクション作家。人物ドキュメントやスポーツ全般にわたって執筆活動を展開。主な著書に『テンカウント』『男の引き際』『工藤公康「42歳で146km」の真実』『高橋尚子 夢はきっとかなう』など。

デイリー新潮編集部

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