「親友の結婚式で歌ったら新郎側はドーンと引いちゃって」 平松愛理が語る「部屋とYシャツと私」誕生秘話
記録と記憶で読み解く 未来へつなぐ平成・昭和ポップス 平松愛理(1)
連載「記録と記憶で読み解く 未来へつなぐ平成・昭和ポップス」では、昭和から平成初期にかけて、たくさんの名曲を生み出したアーティストやもしくは関係者にインタビューを敢行。令和の今、Spotifyなどの音楽ストリーミングサービス(サブスク)で人気の楽曲をランキング化し、各曲にまつわるエピソードを深掘りすることで、より幅広いリスナーにアーティストの魅力を伝えていこうという企画である。
連載第2弾となる今回フィーチャーするのは、2024年にデビュー35周年を迎えた平松愛理。1992年にシングル「部屋とYシャツと私」がミリオン級のヒットを記録したことを皮切りに、大人の女性たちの共感を呼び、90年代に7作ものアルバムがオリコンTOP20入り。また、95年以降は、阪神・淡路大震災の復興支援ライブ「KOBE MEETING」を25年間開催。さらに、11年には東日本大震災の被災地で「花サカスプロジェクト」や「黄色いハンカチプロジェクト」を発足させるなど、支援活動にも精力的だ。
そんな彼女に、サブスクを活用しているかを尋ねると、
「はい。もともとハワイが好きで、リラックスするために毎晩、寝る前にハワイアンを。あとは、洋楽のヒット曲もよく聴いています。それと昨年、NHKラジオのディスカバーシリーズで、カーペンターズを深掘りする番組「ディスカバー・カーペンターズ」の案内人を1年にわたり務めた際にも、ストリーミングで予習をしましたね。カーペンターズは、私の大きなルーツのひとつです」
ちなみに、平松のSpotify月間リスナーは常時3~5万人で、現在のところ、日本のリスナーが9割以上を占めている。だが、後述するように、一部の人気曲は海外で4割近くも聴かれており、今後、海外でバズる可能性も秘めている。
ここからは、現在のSpotify人気ランキングに沿って見ていこう。
「部屋とYシャツと私」は「結婚する親友からのリクエスト」で誕生
Spotify第1位は、2位に5倍以上の差をつけて「部屋とYシャツと私」。90年に3rdアルバム「MY DEAR」に収録後、92年にシングルとしてリリースされると、オリコンTOP10に15週もランクインするロングセラーとなり、累計ではミリオン級のヒットとなった。本作は、どうやって生まれたのだろうか。
「当時、親友から“結婚式で何か歌って”とリクエストされて、“だったら曲を書いてみよう”と作ってみたんです。でも当日、実際に式場で歌ってみたら、ちょっと変わった反応がありました。新婦さん側からはとても感謝されて温かく迎え入れられた反面、新郎側は、ドーンと引いちゃって(苦笑)。特に、2番の ♪あなた浮気したら うちでの食事に気をつけて 私は知恵をしぼって 毒入りスープで一緒にいこう♪ を歌ったあたりで、両サイドでのリアクションの差が歴然としました。
実は、この曲は周囲の人々にリサーチをしながら、2か月以上かけて作っています。例えば、 ♪あなたは 嘘つくとき 右の眉が上がる~♪ は、当時のディレクターのまばたきがときどき多くなることをヒントに、パッと聞いて映像が浮かぶようなフレーズを考えました。また、私の母に新婚当初について尋ねたところ、父がある日泥酔した挙句、結婚していることを忘れて実家に帰っちゃった、と(笑)。だから ♪4日目 つぶれた夜 恐れて実家に帰らないで~♪ は、“忘れて実家に帰らないで”、が真実です。母はそれがとても悲しかったようなので、歌詞のほうは“恐れて”に変えました」
また、「部屋」と「Yシャツ」と「私」という3つを並べるというセンスも天才的で、他に類似するものがない。この3つはどうやって選んだのか。
「これは、“結婚することで変わるものってなんだろう”って考えていた中で生まれたんです。まず、住まいが変わることから連想して『部屋』、多くの女性が、男性が仕事で着る衣類を洗うようになることから『Yシャツ』、そして、苗字が変わるということで『私』。その3つを並べてみました」
ヒットしていた当時は、“女性版「関白宣言」”のように紹介するメディアもあったが、平松本人にそれを意識して作ったのかを尋ねると、
「確かに、親友に頼まれる前から、担当ディレクターに“女性版の『関白宣言』みたいなのを作ってよ”とは言われていました。ただ、私の中では、ちあきなおみさんの『四つのお願い』のように、ちょっと難しいお願いをたくさん並べるラブソングを作ろうと思っていたんです。だから、ダイレクトではないものの、この2曲は影響していますね」
しかし、これだけこだわり抜いた作品にもかかわらず、作品としてレコーディングするにあたり、“これは平松愛理らしくない”と猛反対にあったそうだ。
「自分の中では“産みの苦しみ”があった分、今までにないほど愛しい曲だったので、アルバムの1曲としてでもいいから残したいと思っていたんです。それだけに、反対されたときは泣きましたね。千代田区にあった『一口坂スタジオ』の非常階段で。でも、ディレクターとアレンジャーだけは“平松らしい”と言ってくれて、無事レコーディングできることになったんです」
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