「戦争に行くのは若者と相場が決まっている」 反骨のジャーナリストが抱えた「怒り」の源は

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 高倉健さんが主演を務めた映画「幸福(しあわせ)の黄色いハンカチ」(1977年)の原作者として広く知られ、アメリカでは反骨を貫くジャーナリストとして、またコラムニスト、小説家として一世を風靡したピート・ハミルさん。かつてはプレイボーイとまで呼ばれた人だった。

 そんなピートが結婚相手として選んだのは日本人の女性。13歳年下、「ニューズウィーク日本版」創刊時にニューヨーク支局長を務めた青木冨貴子さんは、彼がコロナ禍の渦中で旅立つまで33年間の結婚生活を通して夫の創作活動を献身的に支え続けた。

 頼まれるとイヤとはいえない性格で、つねに仕事に忙殺されていたピート。ワーカホリック(仕事中毒)ともいうべき日々を過ごしていたが、それだけがむしゃらに仕事に打ち込んでいた「原動力」はいったい何だったのだろうか――。

 彼をもっともよく知る青木さんがとっておきのエピソードを明かす。

※本記事は、青木冨貴子氏による最新作『アローン・アゲイン 最愛の夫ピート・ハミルをなくして』より一部を抜粋・再編集し、第10回にわたってお届けします。

いちばんの誇りだった二つの賞状

「いったい、誰がこんなにすごいライナー・ノーツを書いたんだろう!」

 東京で音楽記者をしていた頃のこと。発売されて間もない、ボブ・ディランの「血の轍(わだち)」のテスト版をレコード会社からもらったわたしは、食い入るように解説文を読み、思わずため息をついた。
 
 それを書いたのがピートだとわかったのは、ずいぶん経ってからのことだった。ちなみに、このライナー・ノーツはグラミー賞を取っている。
 
 ピートのもとには数えきれないほどの賞状があったけれど、彼にはそういうものを壁に飾る趣味がなかったので、大半はクローゼットや倉庫にしまい込まれたままだった。

 どんなに立派な賞をもらってもけっしてひけらかすようなことはなかったが、彼の人生において、とても大きな意味をもつ賞状が二つある。「リージス高校」の卒業証書、そして「セント・ジョンズ大学」の博士号を授与された時のものだ。

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