【グリコ・森永事件40年】似顔絵から受ける印象とは違った「F」 元捜査幹部が明かす“本当の姿”
情報共有はされず
被害者の江崎社長が拉致されたのは兵庫県、身柄が保護されたのが大阪だった。当初から兵庫県警と大阪府警は互いのメンツを重視し、独自に捜査を展開していたと言われている。
「神戸連続児童殺傷事件」(97年)を捜査一課長として指揮した元兵庫県警の山下征士氏は、「グリコ・森永事件」発生当時は鑑識課員として江崎社長宅の検証に立ち合い、後に捜査一課調査官として捜査に携わった。同氏は著書『二本の棘 兵庫県警捜査秘録』(KADOKAWA)で、こう明かしている。
〈似顔絵が公表される少し前に、当時の兵庫県警の調査官から「どうも似顔絵があるようだ」という話を聞かされたが、作成当初は大阪府警の捜査一課長にも伝わっていなかったと後になって知った〉
同書によると、あれだけの規模の事件ながら、最前線の捜査員にもたらされる情報は限定的であり、特に兵庫県警以外の情報が降りてくることはほとんどなかったという。ある程度の幹部になって、合同捜査会議でようやく情報を得るが、それも限られたもので事件の詳細な全体像を把握していたのは、ごく一部の上層部だけだったという。
大阪、兵庫だけでのべ約83万2000人の専従捜査員。お互いの対抗意識が輪をかけ、不審者を追う捜査で、同じ人物をそれぞれが独自に追うこともあったという。調整に入った警察庁の指示もあり、「ビデオの男」や「キツネ目の男」を公開、広く市民から情報を集める=市民の目と耳で「監視」する、という方針に切り替えたのだが、
「保秘を徹底するあまり、隣の捜査員が何をやっているのか分からない状態の中で、犯人を追うのは大変なストレスだったと思います。また、一般から情報を募ることも必要ですが、問題はその寄せられた情報を潰す作業に人と時間を取られてしまった。例えば、私もそうだったように、不審者がいるとなれば、それなりの警察官を配置し、時間を割いて話を聞き、その裏付けをとらないといけない。大変な作業に忙殺されてしまったのです」(小田桐氏)
似顔絵公開後、愛知県や東京都で警告文の入った青酸入りチョコが発見(2月)、駿河屋への恐喝未遂事件(3月)などがあった後、犯人は動きを止めた(8月)。
「似顔絵の公開は、犯人の動きを封じ込めるには有効だったかもしれません。ですが、捕まえるためには相手に動いてもらう、つまり現金受け渡しのための現場設定が必要です。事件当初、取り引きで動きがあった時に捕まえられなかったのが悔やまれます」(小田桐氏)
後編【【グリコ・森永事件40年】最後まで残った江崎社長に着せられた“黒のオーバー”の謎】へつづく
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