「自分の意志はとりあえず横においておく」 横尾忠則が語る「受け身」の姿勢
若い頃からというか、すでに子供の頃から僕はあれがしたい、これがしたい、あれが欲しい、これが欲しい、あゝなりたい、というような欲求があまりない子供として育てられたような気がします。猫可愛がりに溺愛されたひとりっ子だったので兄弟と物を争うということもなかったせいか、養父母である両親は、こちらの欲求を先きに読んで、まるで手品のようにサッと与えてくれました。そんなわけで両親に従がっていれば、何も特別に欲しい物を求める必要がなかったのです。そうした受動的な生き方がいつの間にか僕の中で形成されてきたように思います。何かが不足しても、誰かがきっと与えてくれるに違いないと、上京した当時、生活苦に追われても、「武士は食わねど高楊枝」みたいな根拠のないエセ貴族を装って就活に走り廻るようなことは絶対しませんでした。
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何の根拠もないのに、全て上手くいくという不思議な自信というか予感があったんですかね。といって作品が認められていたかというと、むしろ無視されていたくらいです。まあ、なりたくてなったグラフィックデザイナーではなく、全く受動的にさせられたのです。当時は軽く「運命のいたずら」だと思っていました。自分の意志でなった職業なら、それなりに野望や野心もあったでしょうが、むしろ第三者の要請に応じたわけなので、当時はいつもの受動的パターンぐらいに考えていたのかも知れません。
そういうとグラフィックデザイナーという職業は常にクライアントの要求に従がって、あらゆる条件や制約に応じる作業が中心ですが、他者の要求に応えるという受け身の姿勢はそんなに大変でも嫌なことでもなかったように思います。だけどクライアントの要求が、こと創造の域に関与してくると、僕は俄然、自我(エゴ)を発揮するのです。それ以外のところでは例の優柔不断というかどうでもいい曖昧な態度になります。日常生活を営む中で、絶対こうでなくてはならないというのは滅多にないように思います。選択の道はいくつもあるはずです。こっちもいいけれどあっちもいいのです。そこで問題は、どちらを選択すれば得をするか損をするかの岐路に立たされることです。
そんな利害的な側面に出合った場合は、損得で判断しないで、どっちが楽しいか、面白いかで判断するようにしています。損得で判断するとそこにエゴが入って、大事なことを見逃がしかねません。今は得かも知れないけれど時間の経過でそれが損に早変りすることだってあります。だけど面白いか、楽しいかでの判断にはエゴが介在しません。だから、結果はこちらの方が有利だったということになりかねません。
それと、能動的に行動するよりは受動的に行動するのが僕の行動パターンであると述べましたね。つまり受動的であるということはある程度運命にまかせることになります。運命にまかせるという時、自分の意志はないんですか、と聞かれそうですが、その答えは、「ハイ、そうです」。自分の意志はとりあえず横に置いておくのです。そして、そのなりゆきを眺めているのです。というか忘れてしまえばいいのです。受け身になった以上、相手まかせにした方が楽です。「そんなことは不安で怖くてできません」とおっしゃるかも知れませんが、僕の場合はその不安に対しても期待があります。どうなるのだろう、大丈夫かな、という不安が逆に、さて、何が起こるのかな、何に出くわすのかな、という冒険心に似た期待に変ってしまうのです。行き先き不明の汽車に乗っているようで、もしかしたら思わぬ場所に連れていってくれるかも知れません。
僕の行動パターンは、この運命まかせでやってきたように思います。つまり他者の主体性に従がった結果を生きてきたような気がします。自分からあゝしたい、こうしたいというのは作品の創造の領域にのみ限定して、あとのことは受動的立場でいるのです。僕的に言うと運命は受動に従がうことでもあると言えます。僕は子供の頃から、実の両親と離れて養父母に育てられました。僕がそうしたいと思ったわけではなく、ここには僕の意志は全く介在していません。生まれてすぐに受動的な生き方を与えられました。だから、その後の人生もこの受動という基本パターンに従がうことになったのだろうと思います。
あの時、あゝすればよかった、こうすればよかったという岐路(Y字路)に立たされたことはあったかも知れませんが、メンドー臭がりの僕は運命にまかせてきました。あの時運命にまかせなければもっといい風景を見られたかも知れませんが、あの時、僕にとっての最もふさわしいあり方が、あの時の運命だったのかも知れません。僕がメンドー臭がり屋でどっちでもいいという優柔不断の性格にさせられたのも、生まれる以前の宿命が決めたプログラミングだったのかも知れません。人間は結局はそのプログラミングに従がった生き方しかできないのではないでしょうか。