「元気があれば、何でもできる」「馬鹿になれ…」アントニオ猪木が残した様々な名言 ベスト1は

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「馬鹿になれ」

「試合に出る(闘う)前に負けること考える馬鹿がいるかよ!」

「馬鹿になれ。とことん馬鹿になれ。恥をかけ。とことん恥をかけ。かいてかいて恥かいて、そうしたら見えてくる。本当の自分が見えてくる。本当の自分も笑ってた。それくらい馬鹿になれ」

「迷わず行けよと言っても、俺にも迷う時もある」

 どれも猪木らしい。だが、冒頭でも記した、1998年4月4日に東京ドームで行われた引退記念試合後のスピーチで、猪木が披露した詩がベスト1だろうか。

「この道を行けばどうなるものか。危ぶむなかれ、危ぶめば道はなし。踏み出せばその一足が道となり、その一足が道となる。迷わず行けよ、行けば分かるさ」

 もちろん「元気があれば、何でもできる」も名言である。

 さて、ここで永遠のライバルとも言われたジャイアント馬場(猪木より5歳年上)との関係について述べておきたい。プロ野球・読売巨人軍のピッチャーだった馬場。入門当初からスポットライトを浴び、翌年には海外への修行に出る。いわゆるプロレス界の「エリート教育」である。

 一方の猪木は、力道山の付き人。心ないファンの中には「馬場へのねたみがあった」という声もあったが、勝手に作り上げたストーリーに過ぎないだろう。だが、馬場がエンターテインメントとしてのプロレスをめざしたのに対し、猪木は「過激なプロレス」「ストロングスタイルのプロレス」をめざした。アリとの一戦についても「プロレスは八百長」という世間の誤解を覆したかったに違いない。格闘ロマンを具現化した男と言っていいだろう。

 1979年、「夢のオールスター戦」が開かれ、盟友・馬場と「BI砲」を復活させた。アブドーラ・ザ・ブッチャー(83)&タイガー・ジェット・シン(79)組を相手に勝利した時、「次は馬場VS猪木の夢のカード」とファンは期待したが、この対戦は実現しなかった。実現しないで良かったと筆者は思っている。

 2023年秋、猪木家の墓がある横浜市鶴見区の総持寺に銅像が建立された。ゆかりの深い選手や関係者が「1、2、3、ダーッ!」と拳を突き上げて追悼した。ファンにとっては新たな聖地の誕生だ。銅像に手を合わせるファンの姿は絶えない。歴史に刻まれた名勝負の数々。近年、アリとの対戦も、真剣勝負だったと再評価されている。

 猪木よ、永遠なれ。令和の若き人たちが、あなたの闘魂を引き継ぐ。

 次回は2010年5月、68歳で亡くなったプロレスラー・ラッシャー木村(1941~2010)。「金網の鬼」の異名をとり、ユニークなマイクパフォーマンスで人気を集めた。生き方は不器用でも、温かさを秘めた名物レスラーの素顔に迫る。

小泉信一(こいずみ・しんいち)
朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴35年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)、『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。

デイリー新潮編集部

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