横綱・輪島の生家は能登地震で大破していた… 地元支援者が明かす「ウォークマン紛失の思い出」

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引退後はプロレス界入り

 輪島は30歳頃から膝の痛みなどに苦しみながらも、79年7月場所と80年11月場所で優勝。最後まで土俵を沸かせ、81年3月場所で引退した。

 年寄・花籠の名跡を継いでから、自らの年寄名跡(年寄株)を担保に多額の借金をしていた不祥事が発覚したため廃業。その際、報道陣の前に立って反省文のようなものを読まされる姿が大きく報じられた。当時、筆者は「あそこまで恥をかかせなくても」と相撲協会に怒りも感じていた。

「他にも何人かの親方が年寄株を抵当に大金を借りたと言われていましたが、輪島は『俺が全部かぶればいいんだ。横綱だったんだから』と言っていました。しかし、父親の孝太郎さんは『あんなことさせるなら54代横綱も消してくれと春日野理事長(栃錦清隆=1925~1990)に言ってやる』と怒っていましたね。犯罪に手を染めたわけでもない。寄ってくる人に騙されたのに、あれはひどかった」(中西さん)

 86年には全日本プロレスのジャイアント馬場(1938~1999)に勧誘されてプロレス界に入った。

「プロレスに入ったのは結果的によかった。輪島は『馬鹿な俺を温かく迎えてくれたよ』と言っていました。デビュー戦は七尾市の総合体育館でタイガー・ジェット・シン(79)との試合でした。ものすごい盛り上がりでしたよ。相撲は投げたら終わりですが、プロレスでは投げ返されたりもする。最初はそれがちょっと屈辱だったようですね」

 デビュー戦は「反則負け」だったとか。

優しすぎるくらいの人

 81年に花籠親方(大ノ海久光=1916~1981)の長女と結婚。通産大臣・安倍晋太郎夫妻の媒酌により行われた挙式には「1億5000万円かけた」とも報じられた。しかし、現役引退後に離婚した。

 その後、再婚し、長男が誕生。長男は2017年の夏、天理高校(奈良県)の投手として甲子園に出場した。

 輪島の故郷入りなどの世話をしていた藤森紘一さん(65)が振り返る。

「輪島さんとの付き合いは主にプロレスラーになってからです。七尾の体育館でのデビュー戦は、プロモーターではなく市民が準備して盛り上げたんですよ。筋肉質の引き締まった体だったからプロレスラーもやれた」

 北の湖との名勝負について輪島は「『決定戦の前にトイレに行ったら、北の湖の優勝パレードのオープンカーが外に見えた。絶対に負けられないと思ったんだ』と話していましたね」と藤森さんは明かしてくれた。

 藤森さんは「お母さんのおとめさんはすごい働き者だったそうです。輪島さんはプロレスで忙しい中も、8月には石崎町のお祭りにも来ていました。破天荒なところがあって、相撲協会の古い考えの人には睨まれていたと思いますね。本当に心が優しい人で、優しすぎるくらいでした。頼まれればどんどん金を渡してしまったのでしょう」と話す。

 輪島は2018年10月8日、肺がんの影響などで衰弱し、70歳で人生の土俵から降りた。和倉温泉でも有数の老舗旅館「加賀谷グループ」の総帥で現役時代の輪島の後援会長だった小田禎彦氏が葬儀委員長を務め、社員だった藤森さんは準備などに奔走した。

粟野仁雄(あわの・まさお)
ジャーナリスト。1956年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部を卒業。2001年まで共同通信記者。著書に「サハリンに残されて」(三一書房)、「警察の犯罪――鹿児島県警・志布志事件」(ワック)、「検察に、殺される」(ベスト新書)、「ルポ 原発難民」(潮出版社)、「アスベスト禍」(集英社新書)など。

デイリー新潮編集部

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