横綱・輪島の生家は能登地震で大破していた… 地元支援者が明かす「ウォークマン紛失の思い出」
異色の「現代っ子横綱」
日本相撲協会のHPによると、輪島は184センチ、129キロ。肩幅は広く、筋肉質の身体だった。
大学までは右四つだったが、角界入りすると左四つに転向。その下手投げは強烈で、当時は珍しかった金色の廻しに絡めて「黄金の左」と呼ばれた。足腰も強靭で、全盛期にはまるで土俵に根が生えているように見えた。大関止まりだった貴ノ花に大きく差をつけた。
学士を持った初の横綱。本名を四股名にした横綱も初めてだった。さらに、初の戦後生まれ横綱を象徴するように、行動はやや型破り。高級車のリンカーン・コンチネンタルで場所入りしたり、「稽古」を「練習」と言ったり、髷を結うために伸ばしていた髪にパーマを当てたり……。その奔放さは日本相撲協会の幹部から批判もされたが、「現代っ子横綱」は女性を中心に人気を集めた。
輪島の大ファンだった女性に訊くと「アンコ型の力士が多い中、ソップ型でもなく、引き締まった体に黄金色のまわしも似合ってルックスもよかった。北の湖(敏満=1953~2015)との熱戦は夢中で応援しました。よくある地方出身のハングリー精神の塊のような力士とは違い、現代的で“ちょい悪”な感じも魅力でしたね」と懐かしむ。
「輪湖時代」
5歳下の大横綱・北の湖と「輪湖時代」を築き、数々の印象的な優勝争いを演じた。
幕内優勝は北の湖の24回に対し輪島は14回だが、対戦成績は23勝21敗で輪島が勝ち越している。76年から77年の2年間で、ともに5回ずつ優勝を分け合う。この間、両横綱による千秋楽の相星決戦が4度、両者優勝圏内での対決が3度、74年7月場所は優勝決定戦にまでもつれ込んだ。
前述の中西さんは「優勝決定戦に持ち込んで逆転優勝した時は、もう私ら町民は狂喜乱舞でしたよ」と振りかえる。
27歳頃、一時期、不振を極めた。四つ相撲は強いが押し相撲に弱く、苦手だったハワイ生まれの巨漢・高見山大五郎(79)には7個もの金星を献上した(対戦成績は輪島の24勝19敗)。
記者に「黄金の左」の衰えを指摘された輪島は、「健在ですよ。昔は下手投げでしたが、今は金星を与えるという意味で『黄金の左』と呼ばれています」と返すユニークさ。だが、こんな奔放な言動も相撲協会には睨まれていた。
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