「何を見てもあなたを思い出す」――残された妻が、深い悲しみの果てに見いだした“希望”とは
人はみな、一人で生まれてきて一人で死ぬ。それなのに、「一人」を怖れるのはどうしてなのだろう。きょうだいや友人、仕事仲間を失う悲しみは想像を絶するものだ。ことに、長年連れ添ったパートナーが10年後、1年後、あるいは1カ月後にこの世を旅立ってしまうとしたら……。
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作家の青木冨貴子さんは、かつて「結婚しない女」とまで呼ばれた自他ともに認めるキャリアウーマンだったが、大恋愛の末に13歳年上の夫と一緒になり、それから33年のあいだ仲むつまじく暮らした。その相手とは、有名な作家・ジャーナリストのピート・ハミルさんだ。日本では映画「幸せの黄色いハンカチ」の原作者としても知られる。ほれぬいた夫をみとったいま、青木さんの心に浮かぶ「切なる想い」とは――。
※本記事は、青木冨貴子氏による最新作『アローン・アゲイン 最愛の夫ピート・ハミルをなくして』より一部を抜粋・再編集し、第10回にわたってお届けします。
夫との「思い出」を目にするのがつらい
2020年8月に夫がいなくなってから2年を過ぎる頃まで、何を見ても彼を思い出す日々が続いた。スーパーマーケットで緑のぶどうを見れば、それを毎日食べていた姿が目に浮かんだし、ダイエット・ペプシのボトルを見れば、仕事机の上にいつも置かれていた氷いっぱいの大きなグラスを思った。
わたしはそういう“もの”を見ないように試みたが、思いがけず目に入ることもある。まして場所とか建物などは避けきれるものではない。そのなかでもいちばん困るのがブルックリン・ブリッジだった。
わたしたちが暮らしたブルックリンとマンハッタンを結ぶ橋で、イーストリバーの上にかかっている。夫はこの橋が大好きだった。
「この橋はいちばん古くていちばんきれいなんだ!」
ひとりで渡るようになっても、嬉しそうな彼の声が聞こえてくるようだ。この橋はアメリカでもっとも古い吊り橋の一つだし、鋼鉄のワイヤーを使った世界初の橋なんだよ――。
大病後、故郷に帰りたがった
夫の最後の4年間をわたしたちは彼の生まれ故郷ブルックリンで暮らした。それまではマンハッタンの先端に近いトライベッカのロフトに20年近く住んでいた。アメリカでは、倉庫や工場をリノベーションした住宅をロフトと呼んでいる。天井が高く、内部を好きにデザインできるので、彼の2万冊近い蔵書を入れる本棚を並べられたし、ふたりの仕事部屋のスペースもとれた。
夫は大病した後でブルックリンに住みたいと言い出した。「ゴーイング・ホーム」。誰しも最後には故郷に帰りたいと願う本能があるのかもしれない。実はそれまでにも時々、そんな言葉を発していたのだが、わたしは知らん顔していた。あまりに荷物が多すぎて、引っ越しなど考えただけでもうんざり。とはいえ、長い入院生活から車椅子でようやく帰ってきた彼の、か細くなった声で真剣に訴える願いには、ついに「ノー」といえなくなった。
ブルックリンはすっかり人気のエリアになったので家賃も上がり、なかなか住めるようなアパートはなかった。初めの2年は「Coop」と呼ばれる共同所有の大きなアパートにいたが気に入らず、それでも根気よく物件を探すうちに、19世紀に建てられた褐色砂岩(ブラウンストーン)5階建の1、2階デュープレックス(階段でつながっているタイプの物件)が見つかった。
「庭のある家で本を読んで過ごしたい」というのが夫の願いだった。
一つの時代を築いた、反骨のジャーナリスト
わたしの夫はピート・ハミル。
日本では映画「幸福(しあわせ)の黄色いハンカチ」の原作者として知られるが、米国ではベトナム反戦運動が盛んだった60年代、いち早く反戦を訴え、市民の声を代弁するコラムニストとして、ニュージャーナリズムの旗手として大いに健筆をふるった。ニューヨーカーの横顔を描く短編のほか小説も発表、自らの半生を描く『ドリンキング・ライフ』、歴史小説『フォーエヴァー』などがベストセラーとなった。
コラムニストとして活躍していた頃、ピートはプロスペクト公園に面した大きな家に住んでいた。この家は当時から数倍以上値上がりしており、本人も手放したことをしきりに後悔していた。
その点、褐色砂岩のアパートは彼の希望にほぼ沿ったものだった。大きな庭があるし、2階には庭を見下ろすバルコニーがある。唯一の難点は家賃が予算を遥かに超えていることだったが、清水の舞台から飛び降りる覚悟で借りることにした。
わたしたちはここで最後の2年を過ごし、彼がいなくなった後、わたしは長く住んでいたトライベッカのロフトへ戻って、ひとり暮らしをするようになった。
ピートが天に召されたのは2020年8月5日。わたしは毎月5日になると、花束をもってブルックリンのグリーンウッド墓地を訪ねる。最寄りのキャナル・ストリート駅から墓地へ向かうと、その急行はマンハッタン・ブリッジの上を走ることになり、西側にかかるブルックリン・ブリッジが自然と目に入る。
長くつきあうには「悪い奴のほうがいい」
2006年、実父の葬式を終えて東京から帰ったわたしは、ピートにその模様を報告した。すると「ぼくはグリーンウッド墓地に入る」といい出した。
1838年に創設されたグリーンウッド墓地は190ヘクタールの広大な敷地に湖や丘や庭園をもち、樹木の数だけで7000本を数える豊かな自然環境で知られる。歴史上の人物が多く眠っているほか、指揮者のレナード・バーンスタインや画家のジャン=ミシェル・バスキアなども埋葬されている。それだけに区画(プロット)を買うのは難しいだろう、もう売っていないかもしれないと思っていたのだが、墓地を訪れるアポがすぐ決まり、事務所で会った理事長(プレジデント)はピートの弟で五男デニスの同級生だった。
どこの区画が良いか訊かれると、迷うことなく「ボス・ツイードの近くが良いね」と答えた。
ボス・ツイードことウイリアム・M・ツイードは19世紀のニューヨーク市政を牛耳った親分。実業家で上院議員だったが、巨額の汚職と収賄など金に貪欲なことで知られ、ついには収監先の牢の中で最期を迎えた人物だった。
デニスの同級生はすぐに3箇所の候補地に案内してくれた。ピートはそのなかから、ツイードの墓にいちばん近い区画を選んだ。なぜ、ボス・ツイードの近くが良いのかと訊かれると、「長くつきあうには悪い奴のほうが話題に尽きないよ」とアイリッシュ特有の冗談を口にしてまわりを笑わせた。
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