「オレはもう長くないんです」肝臓がんになったことを告げると、堀内恒夫は何と言ったか…うどん屋になった元巨人、ドラ1投手の告白
ノンフィクションライター・長谷川晶一氏が、異業種の世界に飛び込んだ元プロ野球選手の第二の人生に迫る連載「異業種で生きる元プロ野球選手たち」。第6回は、読売ジャイアンツ投手からうどん店経営に転じた横山忠夫さん(74)。前編では入団後、試行錯誤を繰り返しながらもピッチングを確立、第1次長嶋茂雄政権の1年目、自己最多の8勝を挙げる成績を残したものの、様々な事情から引退まで。後編では、第二の人生として、うどん店経営を選択した理由から聞いた。
前編【ベンチから非情な“故意死球”命令…元巨人、ドラ1投手はその瞬間、引退を決意した「もう、野球に関わる仕事はやめよう」】のつづき
「こんな姿を見られたくない」という迷いが消えたとき
野球が好きだからこそ、もう二度と野球には関わらない……。
そんな覚悟とともに、横山忠夫(74)がユニフォームを脱いだのは1978(昭和53)年オフのことだった。公私ともに世話になっていた堀内恒夫に第二の人生について相談すると、意外な提案がもたらされた。
「堀内さんに相談したら、元々国鉄スワローズの選手だった方が関わっているという、うどんの《木屋》を紹介されて、すぐに入れてもらうことになったんです。最初は有楽町のガード下の店で働くことになってね。まったく自信はなかったし、ずっと続けていく覚悟もなかったんだけど……」
もちろん、いきなり「オレはうどん店の店主として生きていく」という覚悟など持ちようがなかった。しかし、ある日のこと。横山に「覚悟」が芽生える瞬間が訪れる。
「ある日、店長から“銀座店まで具材を持っていってくれ”と命じられました。それで長靴を履いたまま、白い制服を着て、制帽をかぶって大きな鍋を運んでいくことになったんだけど、オレだってジャイアンツの一員だったから、この姿を“誰かに見られるんじゃないかな……”って思いも内心ではあったんです。でも、用事を済ませて有楽町店まで戻ってきたときに、決心がついたんだよね。“オレはうどん屋になるんだ”って」
1年目は有楽町店で下働きや雑用に励んだ。2年目は本部に勤め、損益分岐点や原価率の計算など、いわゆる「経営」を学び、3年目は銀座店で店長を任された。
「元々は独立しようという思いなんて、まったくなかったんだよ。でも、社長の考えは、“たとえ従業員が足りなくても、寝ないで働かせるぐらいの方が儲けが出る”という考え方だということに気づいて、“オレにはここは向いていないな”と思って独立することにしたんだ。やっぱり、自分で厨房に立って、お客さんとワイワイやりたかったしね」
こうして、横山は82年、母校・立教大学のすぐ近くに「立山」をオープンする。本名の「横山」ではなく、「立山」としたのは、「商売は《横》だと縁起が良くないから」という理由からだった。本人は「経営は順調じゃなかったよ」と笑うが、それでも40年以上もこの地でのれんを守り続ける名店に成長した。
「余命3カ月」の大病を乗り越えて……
オープンしたのは32歳のとき。30代はがむしゃらに駆け抜けた。幸いにして常連客もつき、経営はすぐに安定した。この頃、心境の変化が訪れる。
「最初の3年ぐらいは一切、野球に関するものは店内に置かなかったし、元プロ野球選手だということも話していなかった。だけど、当時の立大野球部の助監督が店にやってきて、“部員たちの練習を見てくれませんか?”と頼まれたんだよね。最初は断っていたけど、何度も何度も頼まれるから、“じゃ、一度だけ”ということでグラウンドに行ったんだ……」
母校のグラウンドで久々に白球に触れ、打球音を聞き、泥にまみれる後輩たちの姿に触れ、横山は一瞬で気がついた。いや、思い出した。
「……後輩たちの姿を見ていたら、“あぁ、やっぱりオレは野球が好きなんだ”って思い出したんだよ。それからもう一度、野球に対する情熱がよみがえってきたんだよね」
しかし、50代を目前に控えて大きな転機を迎えることになる。99年秋、立教大学が東京六大学で優勝を決めた翌日、横山は大量に下血する。大腸が破裂したのだ。診断の結果、すでに肝臓まで転移している大腸がんだとわかった。
「まず大腸を70~80センチくらい切除したんだけど、すでに肝臓に転移していることもわかった。すぐに東大病院で手術をしてもらって、“これで大丈夫だ”と思ったら、それから1年も経たないうちに肝臓に別のがんができた。肝細胞がんだったんだ」
医師からは「余命3カ月」と告げられた。「オレの人生もここまでか」と思う一方、どうしたらいいのか分からない気持ちもあった。家族は移植手術をするなら、すすんで「ドナーになる」と言ってくれた。混乱の極みにあった横山の背中を押した人物がいる。堀内だった。
「たまたまホリさんと二人きりになったときに病気のことを告げたんだよね。“ホリさん、オレはもう長くないんです。身内の身体を傷つけてまで生きるつもりはない。だからこれでいいんです”って言ったら、“命には代えられないのだから、家族からの申し出をありがたく受けろ”と、激しく叱られました」
東大病院から虎の門病院に移り、そして京大病院での診断を経て、移植手術をすることが決まった。ドナーとして頼りにしていた息子は脂肪肝のために移植ができないということが判明した。
「肝臓の大きさというのは、その人の体格に比例するということで、先生が言うには、“奥さんからだけでは足りないので、娘さんの肝臓もお願いできませんか”と言われました。でも、当時20歳の娘の身体を傷つけることなんて絶対にしたくないから断ったんだよ」
だが、横山の妻は諦めなかった。単身、京大病院へ行き、再度、検査を受ける。「私一人でも(移植は)大丈夫だと分かったから」と電話があった時は、本当にすまないと思ったという。こうして横山は肝臓移植を受けること決意する。
「普通は3分の1程度切除するものらしいんだけど、結果的にうちのヤツの肝臓を半分ほど移植してもらったんだよね」
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