ベンチから非情な“故意死球”命令…元巨人、ドラ1投手はその瞬間、引退を決意した「もう、野球に関わる仕事はやめよう」

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ようやく迎えた覚醒のときも長くは続かなかった……

 立教大学の先輩である長嶋が監督となった。ファームでは向かうところ敵なしの無双状態にあった。「よし、今年こそ!」の思いで臨んだものの、いきなり出鼻をくじかれる。ベロビーチで行われた春季キャンプメンバーから外れてしまったのだ。横山の代わりに選ばれたのが、鹿児島実業高校から入団したゴールデンルーキーの定岡正二だった。

「あの年は定岡フィーバーがものすごかったんだけど、いきなり彼はベロビーチに抜擢されて、自分はメンバーから外れてしまった。オレとしては、“今年ダメなら引退する”という覚悟だっただけに、ショックは大きかったですよ。それでも、“必ずチャンスは来るはずだ”と信じて、腐ることなく練習は続けていました。“今に見てろよ”の気持ちでした」

 そしてチャンスは5月に訪れる。ファームでの実績が認められ、ついに一軍入りを果たしたのである。コントロールには自信がついた。現在で言うシンカーのようなフォークボールが相手打者を翻弄した。二軍での経験を通じ、マウンド度胸も磨かれていた。勝てる要素はすでにそろっていた。

「ようやく自分でも納得できるピッチングができるようになって、結果も出始めるようになりました。この頃、王(貞治)さんが、いきなり声をかけてくれたんです。“おいヨコ、浩二がお前のフォークはわかっていても打てないって言っているぞ”って。それはもちろん、励ましの言葉だったんだけど、それが自分には逆効果となってしまったんです……」

 王が口にした「浩二」とはもちろん、球界を代表するスラッガー、広島東洋カープの山本浩二のことだ。ようやく台頭してきた後輩選手に対する王の言葉を額面通りに受け取れば何も問題はなかった。しかし、先輩である堀内が「横山は石橋を叩いて壊すほどの心配症だ」と語るように、彼の感性はプロ野球選手としてはあまりにも繊細過ぎた。

「僕のフォークは指に力を入れてグッと挟んで投げるから、クセが出やすいんです。この頃、フォークを投げるときに、相手の三塁コーチが何かを叫ぶことが多くなっていたこともあって、浩二さんの言葉を聞いて、“もしかしたらクセがバレているんじゃないのか? 浩二さんは鎌をかけているのではないか?”と疑心暗鬼になってしまった。それ以来、フォークを投げるのが怖くなってしまったんです……」

 およそ半世紀前を振り返り、力ない声で横山はつぶやいた。

「野球が好きだから、もう二度と野球には関わらない……」

 長嶋監督1年目となる75年シーズンは、自己最多となる8勝を記録した。しかし、その後はまったく結果を残すことはできず、翌76年に1勝、77年には一度も一軍登板のないまま、78年にロッテオリオンズに移籍が決まった。なぜ、勝てなくなったのか? その理由を問うと、やはりここでも繊細過ぎる性格が原因だった。

「75年のシーズン途中に8勝を記録して、“絶対に10勝を目指すぞ”と意気込んでいたんだよね、あと3試合ぐらいは登板のチャンスがあったから。でも、その頃ちょうど二軍が優勝争いをしていたんです。当時の僕はファーム20連勝が継続中だったから、“優勝が懸かっているからファームで投げてくれ”って言われてね、そこからまったく気持ちがのらなくなってしまったんです。その翌年以降もずっと……」

 決して、肩やひじの故障に苦しめられていたわけではなかった。気力が萎えてしまったのだ。本人は「そんな性格だからプロでは通用しなかったんだよね」と振り返る。だからこそ、自分を変えるために、巨人との契約が終わると先輩の伝手をたどり、ロッテに移籍した。当時の金田正一監督の期待とともに、新天地での日々が始まった。

「ロッテでもチャンスをもらったんだけど、“もう野球をやめよう”と決意する決定的な瞬間があったんです……」

 ある日の試合のこと。先発投手がノックアウトされた。2番手は別の投手が投げることになっていた。しかし、突然「横山、投げろ」と命じられた。

「……キャッチボールも何もしていない状態で、いきなりマウンドに上がることになりました。オレ、こういう性格だから、“何で事前に言ってくれないんだよ”って思いながら投げていたからボコボコに打たれた。でも、ベンチは代えてくれない。そうしたら、ある選手から、“監督が怒っているから、誰かに当てないと永遠に交代させてもらえないぞ”って言われたんです」

 故意死球の指令だった。仕方なく、ある外国人選手の足元を狙い、ようやくマウンドを降りることができた。このとき横山は決意する。

「オレは本当に野球が好きだったから、“もう、野球に関わる仕事はやめよう”って決意したんです」

 これ以上現役を続けていれば、どんどん野球が嫌いになってしまう。だからこそ、もう引退しよう。それが、「本当に野球が好きだった」男の決断だった。78年オフ、横山はひっそりとユニフォームを脱ぐ。「もう、野球と関わる仕事はやめよう」と決意していた横山は、自分でも予期していなかった意外な転身を図ることになる――。
(文中敬称略)

後編【「オレはもう長くないんです」肝臓がんになったことを告げると、堀内恒夫は何と言ったか…うどん屋になった元巨人、ドラ1投手の告白】へつづく

長谷川 晶一
1970年5月13日生まれ。早稲田大学商学部卒。出版社勤務を経て2003年にノンフィクションライターに。05年よりプロ野球12球団すべてのファンクラブに入会し続ける、世界でただひとりの「12球団ファンクラブ評論家(R)」。著書に『いつも、気づけば神宮に東京ヤクルトスワローズ「9つの系譜」』(集英社)、『詰むや、詰まざるや 森・西武 vs 野村・ヤクルトの2年間』(双葉文庫)、『基本は、真っ直ぐ――石川雅規42歳の肖像』(ベースボール・マガジン社)ほか多数。

デイリー新潮編集部

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