ベンチから非情な“故意死球”命令…元巨人、ドラ1投手はその瞬間、引退を決意した「もう、野球に関わる仕事はやめよう」

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 異業種の世界に飛び込んだ「元プロ野球選手」たち。第二の人生で、元プロという肩書きはどのような影響があるのか。ノンフィクションライター・長谷川晶一氏が、新たな人生をスタートさせた元プロ野球選手の今に迫る連載「異業種で生きる元プロ野球選手たち」。第6回は元読売ジャイアンツの投手で、現在は池袋でうどん店を営む横山忠夫さん(74)。栄光のV9時代にドラフト1位で入団した当時の巨人は、どのようなチームだったのか……。

「横山は自分のボールに責任を持たない」という川上監督の言葉

 JR池袋駅西口、うどんの名店「立山」での生活もすでに40年以上が経過した。今ではすっかり「店主」としての風格が漂う横山は、かつては読売ジャイアンツのユニフォームに袖を通し、後楽園球場のマウンドに立っていた。

 球史に刻まれるV9時代の真っ只中の1971(昭和46)年、ドラフト1位でジャイアンツに入団した。川上哲治監督の期待を一身に背負っていたものの、なかなか結果を残すことはできなかった。しかし、長嶋茂雄新監督の下、球団史上唯一となる最下位に沈んだ75年、エース・堀内恒夫の10勝に次ぐ8勝を記録。「ついに覚醒のときを迎えたか」と期待されたものの、その後は結果を残すことができずに、78年シーズン限りで移籍先のロッテオリオンズで現役を終えた(通算成績=70試合登板12勝15敗)。

 立教大学の先輩である長嶋と、野球部の同期である伊集院静との知られざるエピソード、尊敬すべきエース・堀内恒夫との交流譚。「余命3カ月」と宣告された大病を乗り越えた先に見つけたもの……。波瀾万丈の横山の人生を追う――。

「ドラフト1位指名と言っても、この年は不作と呼ばれていて、そんなにすごい選手がいなかった。だから、たまたま1位になっただけ。網走南ヶ丘高校時代も、立教大学時代も、何も指導なんか受けていないから、ただ力任せに投げるだけ。球は速かったとは思うけど、そんな状態だったから、プロでやっていく自信なんか何もなかったよ」

 ペース配分も考えずに「力任せに投げるだけ」だったから、試合序盤は好投するものの、回を重ねるごとに少しずつコントロールが甘くなっていき、それを痛打される。そんな試合がずっと続いた。川上哲治監督からの期待が、どんどん減じていった。

「直接言われたわけではないけど、ピッチングコーチの中村稔さんを通じて、“横山は自分のボールに責任を持たない。そんなピッチャーは使わない”と川上監督が言っていたということを聞きました。だから、“責任を持たない”とはどういうことなのか、真剣に考えましたよ。自分の場合は、とにかく力任せに投げていただけだから、どうしてもコントロールが甘くなる。心のどこかに、“思い切って投げて打たれたら仕方ない”という思いがあったんだろうね。まずは、そこから直すことにしました」

 以来、練習時のキャッチボールの意識が変わった。相手の胸を目掛けて投げるのは基本だが、それだけでなく、相手のユニフォームのボタン、あるいは襟と、その都度投げる目標を決め、ひたすらそこだけを目標に集中して投げ続けた。

「それを意識していたら、不思議なもので10球投げたら、8球、いや9球は狙い通りに投げられるようになったんだよね。そうすると、元々投げていたフォークボールがさらに生きてくる。二軍ではまったく負けなくなって20連勝を記録したんです」

 それでも、一度失ってしまった信用を取り戻すのは難しかった。川上監督時代にはなかなか登板機会をもらえないまま、3年目のシーズンを終えた。そしてこのとき、ついにチャンスが訪れる。川上が退き、長嶋茂雄新監督が誕生したのである。

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