【東日本大震災】「所持金はたった700円」 支援を受けられずに追い詰められる外国人被災者たち #知り続ける

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 東日本大震災の直後から東北で暮らし取材を続けるルポライター・三浦英之氏が、震災から12年たって初めて知った事実がある。それは「東日本大震災で亡くなった外国人の数を、誰も把握していない」ということ。彼らは、なぜ日本に来たのか。どのように暮らしていたのか。そして、彼らとともに時間を過ごした人々は、震災後、なにを思っているのか……。

 取材を進めるにあたり、三浦氏は東北大学の男女共同参画推進センターで講師を務める李善姫(イ・ソンヒ)氏を訪ねる。

 東日本大震災の被災地における外国人コミュニティーの変化などについて調査を続けている数少ない研究者の一人である彼女が教えてくれたのは、苦しい状況に置かれた外国人被災者たちの実情だった。

『涙にも国籍はあるのでしょうか 津波で亡くなった外国人をたどって』から一部抜粋・再編集してお届けする。

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助けを得ることが難しかった外国人たち

「ご存じの通り、東日本大震災では約1万8400人の方々が死亡・行方不明になっています。たとえ外国人犠牲者の数が33人か41人のどちらであったとしても、1995年の阪神・淡路大震災で6434人が亡くなり、そのうちの174人が外国人だったことと比べると、やはり東日本大震災の犠牲者における外国人の割合は決して高いものではなかったと言わざるを得ません。それ故に、東日本大震災では被災地における外国人の問題が大きな社会問題になりえなかったという実情があります」

「なぜ阪神・淡路大震災に比べて、東日本大震災では外国人犠牲者の割合が高くならなかったのでしょう?」

「それにはいくつかの理由があります」と李は教えてくれた。「まずは統計的に見て、東北地方は日本の中でも震災前、定住外国人が極めて少ない地域だったことがあります。震災直前の2010年12月における被災3県(岩手、宮城、福島)の外国人登録者数は計3万3623人。人口比率は宮城0.69パーセント、福島0.56パーセント、岩手0.47パーセントで、日本全体の1.7パーセント弱と比べると外国人が占める割合が顕著に低い地域でした。津波の被災地に目を向けると、2008年当時、宮城県内で最も外国人の比率が高かったのが女川町で2.16パーセント、続いて仙台市が0.98パーセント、南三陸町が0.86パーセント。女川では外国人の約75パーセントが技能実習生で、残りは永住者や特別永住者、日本人の配偶者などでした。南三陸でも半数以上は技能実習生が占めており、ほかの永住者は日本人の配偶者。彼らの多くは日本での生活において家族や監理者がおり、日本のコミュニティーに組み込まれていたと言えると思います」

「つまり、震災が発生したときにも多くの外国人が周囲の日本人から助けを受けることができたと?」

「その通りです。でもそれ故に、被災地における外国人コミュニティーでは震災後、小さくない混乱が生じました。各地で外国人が地域に組み込まれていたために、各国の大使館や国際交流団体などが現場で自国民の安否確認や被災外国人への支援の糸口を探ろうとしても、なかなかうまくいきませんでした。大使館は通常、パスポートに記載されている本名を使って安否確認などを行うのですが、東北地方で暮らす結婚移住の女性たちの多くが通称名を使っており、親しい外国人同士でもお互いの本名を知らないケースがほとんどなのです。特に韓国や中国からの結婚移住者たちは見た目がそれほど日本人と変わらないため、外国人としてのアイデンティティーを隠して結婚した相手の地域に馴染もうとする。そのような『不可視化』は災害発生時、避難所などでは彼女たちが外国人であるという特性を配慮されず、極めて弱い立場に置かれてしまうという不利益につながってしまいます」

所持金は「700円」

「つまり、抱えている問題が表出しにくくなることで、本来必要な支援やケアが届きにくくなると?」

「おっしゃる通りです」と李は頷いた。「たとえば、私が知っているケースでは、石巻市内で避難生活を送っていた当時40代の女性がそれにあたります。彼女は在日韓国人の父と日本人の母との間に生まれたものの、父親が認知をせずにその後離別したため、ずっと無国籍のまま日本で生きてきました。学校に通うことはできたのですが、戸籍がないために『日本の社会では何もできない』と思うようになり、自分の居場所を作ろうと20代で結婚。しかし、姑との関係悪化をきっかけに夫から暴力を受けるようになり、離婚を申し込んでも夫に拒否されて、長らくドメスティック・バイオレンスを受けながら生きていました。ところが震災を契機に突然、夫から離婚を切り出されたというのです。その理由を尋ねると、彼女は私に『夫は受け取った義援金を私に分けたくなかったからだ』と説明しました」

「ひどい話ですね」と私は首を振った。「女性はその後、どうなったのでしょうか?」

「彼女は離婚し、そして住む場所を失いました」と李もやはり首を振りながら話を続けた。

「石巻市役所で『自分も被災者なので仮設住宅に入れないか』と相談しても、元夫が自宅の応急処置金を受け取っているため、仮設住宅には入れないと断られてしまったというのです。知人の家を転々とするなかで、彼女は最終的にホームレスのような状態になりました。一方で、彼女は38歳のときに自分もどこかの国籍を取得しなければダメだと思い、韓国籍を取得していました。本来であれば、彼女は韓国大使館や韓国の支援団体を頼ることができたはずでしたが、彼女には自分が韓国人であるという認識が薄く、そもそも韓国人のコミュニティーにも入っていない。支援の枠組みからすっぽりと抜け落ちてしまっていたのです。支援団体や大学研究者らの要請で石巻市が被災外国人を対象としたアンケートを実施し、偶然、彼女がそのアンケートに答えたことで、初めて彼女の置かれている状況が社会的に認知されました。その後、支援者が市の担当部局に掛け合い、なんとか仮設住宅に入ることができましたが、そのときの彼女の所持金はわずか700円でした」

「700円……」

 その金額を聞いて、私は被災地における外国人の現実を改めて目の前に突きつけられたような思いがした。

再就職が極めて難しいという現実

「震災後、外国籍の人々を取り巻く環境はやはり悪化したのでしょうか?」

 私は先日訪れた宮城県南三陸町で暮らすフィリピン人女性、佐々木アメリアへのインタビューを思い出して聞いた。

「ええ、残念ながら、被災地における外国人を取り巻く環境は極度に悪化しました」と李は目を伏せて言った。「震災後、石巻市と気仙沼市が20歳以上の在留外国人にアンケートを実施したところ、震災前は非正規雇用が石巻32パーセント、気仙沼36パーセントだったのに対し、震災後はいずれも23パーセントや31パーセントと極端に減っていました。増えたのは『無職・主婦・学生』という無収入層で、石巻では29人から45人に、気仙沼では22人から30人に急増していました。それらの統計は、多くの被災外国人が震災後、職を奪われたことを意味しています」

「被災地で再就職はできなかったのでしょうか?」

「現実問題として、かなり難しかったと思います。日本では定住外国人に対する社会政策が乏しく、多くの結婚移住者たちは日常生活のなかで日本語を学びます。滞在年数を重ねることである程度の日本語は理解できても、読み書きのできない人が圧倒的に多いのです。被災地の外国人へのアンケートでは、自分の日本語能力に対して『やや問題がある』『非常に問題がある』『まったくできない』と答えた人が、石巻では『読み』『書き』『会話』の順で、58パーセント、71パーセント、39パーセント。彼女たちは日本語のスキルが低いため、一度職を失ってしまうと再就職が極めて難しくなってしまうのです」

※本記事は、新聞記者でもある三浦英之氏が被災地の取材を続ける中で「東日本大震災で亡くなった外国人の数を、誰も把握していない」ということを震災から12年たって初めて知り、その外国人被災者たちの足跡をたどった著書『涙にも国籍はあるのでしょうか 津波で亡くなった外国人をたどって』の一部を再編集して作成したものです。

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