プロ野球史上ただ一人!中日と巨人で「逆転満塁サヨナラ本塁打」を2発も放った“伝説の好打者”

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川上監督のたっての希望で巨人入り

 1968年、「二桁勝てる投手が欲しい」チーム事情から、田中勉との交換トレードで西鉄に移籍した広野は、翌69年に自己最多の20本塁打を記録し、オールスターにも初出場。新天地で輝きを増したかに見えた。

 だが、同年から翌70年にかけて世間を騒がせた「黒い霧事件」(プロ野球の関係者が八百長に関与したとされる一連の疑惑)に巻き込まれ、野球に集中できない日々が続く。記者席は社会部の記者が大半で、試合で三振でもしようものなら、「八百長だろう」とファンからヤジられて、「野球をやるのが嫌になった」という。成績も打率.188、9本塁打と下降した。

 そんな矢先、巨人へのトレードが決まる。同事件でエース・池永正明はじめ、主力投手3人が永久追放になった西鉄は、投手不足を補うため、2対3の交換トレードを断行。交換要員に広野を指名したのは、川上監督のたっての希望だったが、翌71年のキャンプで、広野は2軍に回され、開幕後も連日多摩川の2軍グラウンドでしごかれた。

「僕も一応、西鉄の4番を打っていたし、それなりの自負もあるわけですよ。それなのに川上さんは、僕のことなんかすっかり忘れてしまったかのよう。いつか川上さんを振り向かせようと。2軍で4割近い打率を残したら、やっと上げてくれました」(「週刊ベースボール」1999年6月28日号)。

 1軍に昇格後の広野は、主に代打として2安打1打点を記録し、北陸シリーズにも帯同。5月20日、福井県営球場で“運命”のヤクルト戦を迎えた。

「野球とはわからんですな」

 2対5と敗色濃厚の巨人は、9回に1点を返し、なおも無死満塁で、川上監督は「代打・広野」を告げた。

 前日の試合では、1度もバットを振ることなく3球三振に倒れた広野を、川上監督は「中途半端なバッティングさえしなければいい。お前のいいところは、思い切って打つことだ」と送り出した。

 この一言で気持ちが楽になった広野は、下手投げの会田照夫の2球目、内角低め、見逃せばボールになる膝元へのシンカーをゴルフスイングのようにすくい上げた。この思い切りの良さが功を奏し、高々と舞い上がった打球は、史上3人目の代打逆転満塁サヨナラホームランとなって、右翼席に飛び込んだ。

「昨日三振しているのに使ってくれたのもありがたい。ファームに落ちても、不振でも、いつかはチャンスが来る。だから、背伸びをしてはいけないと、いつも自分に言い聞かせていました。僕は幸せ者ですよ」

 5年前の中日戦で広野に逆転満塁サヨナラ弾を打たれた直後、「野球はわからないものだ」と肩を落とした川上監督も、今度は満面に笑みをたたえながら「野球とはわからんですな」と同じ言葉を口にした。

 1年目に痛めた右肩がその後も尾を引き、現役生活は9年と短かった(現役最終年は中日に復帰)。引退後は中日、ロッテ、西武のコーチや2軍監督などを歴任。2005年には楽天の初代編成部長とGM代行も務めた。

 そして、今でも逆転満塁サヨナラホームランを日本でただ一人、2本打ったことを誇りにしている。くしくも2試合とも、スコアは7対5だった。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

デイリー新潮編集部

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