“輝き”は一瞬だった…プロの世界でもがき続けた「元新人王」の苦闘

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パームボールが飛躍のカギに

 中日といえば、1979年に入団した藤沢公也も、1年目が野球人生のピークだった。ドラフト史上最多の5度の指名を受け、5度目の中日1位指名も都市対抗出場を目指す会社側の事情で1年後に入団と、長い回り道をした27歳の“社会人のエース”は、プロ入り早々、キャンプで挫折を味わう。

 ブルペンの隣で投げていた高卒2年目・小松辰雄が150キロ級の剛球を連発するのを見て、「プロでは1勝もできないのではないか……」と自信をなくしたのだ。

 そんな矢先、稲尾和久コーチが「たいして速い球を投げるわけではないのだから、遅い球を覚えて、真っすぐを速く見せるしかない」と技巧派への変身をアドバイスし、パームボールを教えてくれたことが飛躍のきっかけとなる。

 スポンジボールを使って、ひたすら緩いボールを投げる特訓に励んだ藤沢は、79年7月4日の巨人戦で三塁を踏ませず、プロ初完封。「ボールが遅くて、うまくいかなかったなあ」と王貞治を幻惑させるなど、面白いようにパームが決まり、13勝5敗、防御率2.82で、新人王と最高勝率を手にした。

 だが、シーズン終盤、左太もも肉離れを発症しながら無理して投げたことが尾を引き、翌80年は1勝15敗、防御率5.25と急降下。その後も故障が相次ぎ、プロ生活はわずか6年で終わりを告げた。

 それでも本人は「考えてみれば幸せでした。一つ新しいボールをおぼえたために新人王になったのですからネ」(『魔球伝説 ナンバー編 文春文庫』と“太く短く”の野球人生を肯定的に振り返っている。

復活を期す「虎のドラ1」

 2016年にドラ1で阪神入りした高山俊も、2年目以降、長いトンネルに突入したまま、再浮上のきっかけを掴めないでいる。

 同年3月25日の開幕戦(中日戦)、1番レフトで先発デビューをはたした高山は、初回に大野雄大からプロ初打席初安打を放つと、同29日のヤクルト戦まで阪神の新人では史上初の開幕4試合連続安打を記録し、オールスターにもファン投票の外野手部門3位で出場。9月30日の巨人戦では、136本目の安打を放ち、1998年の坪井智哉の球団新人記録を塗り替えた。同年は打率.275、8本塁打、65打点で新人王に輝き、次代のスター候補生になった。

 だが、翌17年は打撃不振で8月に2軍落ちするなど、打率.250、6本塁打、24打点と2年目のジンクスに泣き、18年も出場45試合、打率.172、1本塁打と苦闘の1年に。

 翌19年に105試合出場、打率.269、5本塁打と復調の兆しが見えたのもつかの間、その後は21年に1軍出場なしで終わるなど、自分を見失い、「自信もほとんど持てない」日々が続いた末、昨オフ、ついに戦力外通告を受けた。

 トライアウト受験も、他の11球団から声がかからなかった高山は、7月までのNPB復帰を目指し、今季からイースタンに参入したオイシックス新潟で再出発。「若い選手も多いですし、経験を伝えながら、自分のレベルアップにもつなげていきたい」と誓いも新たに復活を期している。

久保田龍雄(くぼた・たつお) 1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

デイリー新潮編集部

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