横尾忠則が語る「なんでもない一日」の夜の愉しみとは 「魂を鎮めて、安眠を誘ってくれる」

  • ブックマーク

 このエッセイのテーマが浮かばないので担当編集者Tさんに助けを求めたら、「今日の一日の出来事を書いて下さい」と言われてしまいました。日記を書けということ? ウーン、今日の一日? だったら書きますが、面白くもおかしくもないですよ。

 えーと、まず、今朝は7時頃に起きました。だいたい毎日、夢を見ますが、ゆうべは見なかったですね。昔はUFOに乗せられて地球外惑星に案内される超常現象的な夢が多かったのですが、最近は現実と区別できないほどの現実的な夢ばかりで、ちっとも面白くないです。

 さて、朝食は日替りパンと果物と野菜スープとインドのチャイを少しアレンジした紅茶とジュースなどでした。

 今日は月に一度の定期診察で病院に行きました。一昨年、急性心筋梗塞で救急車で搬送されて、いきなりカテーテル手術を受け、危うく一命はとりとめたという話はすでに書きましたが、それ以来、毎月主治医の先生に診てもらっています。他の臓器が少し弱っているけれど、もう心臓は普通の健康な人と全く変らず心配はありません、病気ではないので今の生活を続けましょう、とのことです。心臓の薬も最初の6錠が4錠に減り、今回また1錠減って3錠になりました。

 主治医の先生の診察が終るといつも名誉院長の先生の部屋を訪ねることにしています。

「先生、息切れが激しいので、アトリエまでの1000歩はヨタヨタ歩きなんですが、今日は思いきってスタスタ歩きを試みたら、歩けるんですよね。どうも身体に対して僕はウソをついていたことに気づきました」と話すと先生は「横尾さんの中には何人かの横尾さんがいて、歩けない横尾さんがいたかと思うと、歩ける横尾さんがいるんです」。

 確かに僕の中には小さい僕が沢山いて、時と場合に応じて、色んなステージに登場して、何かしらを演じているような気がします。「先生、そうなんです。何んとか病気を捜して、それに光を当てて、病気でもないのに病気を装っているんです。何もないところに病気を発生させたかと思うと、それを今度は自分で治してしまう。医者泣かせの疑似患者です」。そういえば、絵もこれと同じ方法で制作を進行させているような気がします。と、こんなたわいもない話をして、アトリエに戻りましたが、いつもは9時から10時の間にアトリエに入ります。

 そこには、描きかけの絵が、僕の来るのを待っています。僕が絵を描くのではなく、絵が僕を描かせるのです。そんなことがわかると余計に何もしたくなくなって、冷蔵庫から気分で選んだ飲み物を手に週刊誌のスキャンダル記事に目を通しながら、因果応報、自業自得やなあ、などと考えます。週刊誌はそういう意味で、仏教書じゃないの? スキャンダルは仏教の根本原理を最もわかりやすく現実的に伝え、読者を悟してくれているのとちゃいまっか?

 ふと時計を見ると4時です。冬至が過ぎて少しずつ陽が長くなってきたのか、西の空は真赤な夕焼けで、アトリエの木影の間から富士山が切り紙の絵のようにシルエットになってペタッと貼りついていました。今日は絵を描かなかったけれど、絵は義務で描くものではない、気分で描くもの、生きるのも気分で生きる。それでいいんじゃないかなと思っています。

 陽が落ちると急に身体が冷えてきました。今日は自転車ではなく徒歩でアトリエに来たので歩いて帰ります。スタスタは最初の50メートル位。あとはヨタヨタに変りました。帰宅と同時に野良猫の夜食を玄関のエサ入れに。妻はこの野良を大黒(おおぐろ)と呼んで、裏庭に朝食を食べにくるのをいつも心待ちにしているのですが、この間は4日間も姿を見せないと言って、声を上げて「オオグロ、オオグロ」と呼んでいました。すると4日も姿を見せなかったオオグロが、突然姿を現わした、と大喜び。うちで飼っている猫のおでんは今年で13歳ですが、この野良はそれ以前からわが家に来ているので15歳以上なのは間違いない。人間年齢では僕の方が少し年上です。普通野良猫は寿命が短かいのですが、オオグロは実に長寿猫です。

 夕食はいつも6時半前後で、妻の作る多国籍料理。画家というよりアスリートに近い肉体労働者だから、日替りメニューには神経を使ってくれています。魚が嫌いだけれど健康のためには魚も食卓に並ぶ。煮魚よりも焼魚、立派な姿態の魚よりは目刺しなどの小魚が好きなのは、子供の頃の食生活の習慣からだと思います。あっ、そうそう、昼は大抵、成城のお店やスーパーからテークアウトした簡単なお弁当です。

 風呂は8時過ぎ。各地の温泉の入浴剤を日替りで、居ながらに温泉気分までは無理だけれど、入浴剤を入れると身体の表面に薄い層ができて、それで身体中を撫(な)ぜ廻すと、少しは温泉気分になるのです。

 9時過ぎには床に。夜中に2度ばかりトイレに行くのですが、猫のおでんはそのタイミングを待ってエサを欲求してきます。トイレから戻ったあとは大画面のテレビでヨーロッパなどの世界の観光風景番組を見るのが深夜の日課です。もう20年近く海外旅行には行っていないので、この番組は毎夜の愉しみです。行ったこともないのに、「知っている」という都市の風景などは、かつての前世の記憶が蘇(よみ)がえったかと思うほど胸がときめくことがあります。深夜番組など見ていると不眠の原因になりかねないけれど、この観光巡りの番組は今や生活必需品になって、逆に魂を鎮めて、安眠を誘ってくれます。さて、今夜はどこの国に誘ってくれるのかな?

 ね、ちっとも変りばえのしない面白くもおかしくもない一日だったでしょ?

横尾忠則(よこお・ただのり)
1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。第27回高松宮殿下記念世界文化賞。東京都名誉都民顕彰。日本芸術院会員。文化功労者。

週刊新潮 2024年2月29日号掲載

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。