【ケーシー高峰の生き方】「グラッツェ、アミーゴ、やってるか、母ちゃん」…本人が語っていた独特な漫談の秘密

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「グラッツェ、アミーゴ、やってるか、母ちゃん」

 ここで少しさかのぼるが、2004年秋、ケーシーさんは舌の左側面に白いポチッとしたできものを見つけた。だが、忙しくて病院に行く時間がなかったという。

 翌春、できものは直径2センチぐらいに広がっていた。大きな病院で診察してもらうと、口腔の粘膜の一部が白変する病気だった。1割近くががんに移行するという説明だった。

 山形県で産婦人科医をしていた母親をはじめケーシーさんの親類は医者が多い。外科医の甥に相談すると、「切っておけば大丈夫。医者を紹介する」と言ってくれた。だが、舌がんに移行してしまった。

 05年、手術を受けた。術後20日間は傷口が開いてしまうため舌を動かすことができず、まったくしゃべれなかった。

「普段、言っているようなことも言えない。芸人だから、しゃべれないってことがすごいストレスだった」とケーシーさんは言っていた。だが、話せなくてもケーシーさんの周りは笑いが絶えなかったそうだ。そこにいるだけで周囲が和んだのである。

 舌を動かしてもいいと許可が出てからは、見舞い客や病院のスタッフを相手に冗談を飛ばしていたが、縫合してあるため舌がなかなか柔らかくならない。やはり芸人なのだろう。舌を動かす許可が出てからは、見舞客や病院のスタッフ相手に冗談を飛ばしていたが、完全に治ったわけではない。舌がひっかかったり、もつれたりして1年くらいは大変だったそうだ。

 その後も闘病生活は続く。2018年春、肺を患い入院。自宅療養していたが、再入院した。

「どんなことでも懸命に努力し、チャレンジする人でした」

 同世代の芸人として共に東京のお笑いを支えてきた春日三球さん(1933~2023)はそう話していた。白衣に黒縁メガネ。首からは聴診器がぶらさがっており、晩年は舞台に上がるだけで笑いが起きた。

 唯一無二の芸風と言っていいかもしれない。ケーシーさんの存命中、私の後輩が「ケーシーさんの漫談のスタイルはどこから来ているんでしょう?」とインタビューしたことがある。その回答がすこぶる面白い。

 医学に関わる話は母親や親族から。子どものころから診察室で遊んでいたし、母親も積極的に医学の話をしてくれたので自然に覚えてしまったそうである。しゃべり方は「(ジャズクラブでの)音楽のMC(司会)をやってきた流れですよ」とケーシーさんは答えている。そして、続けてこう言っている。

「『よろしく』を『しくよろ』なんて逆さ言葉はミュージシャンの符丁。それからスペイン語は、アイ・ジョージさんや坂本スミ子 さんとラテンのバンドで回っていたころの名残ですね。『よお、セニョール』『アミーゴ、今夜どこ行く』なんてやっていたから。でも一般の方はびっくりしたでしょうね、『グラッツェ、アミーゴ、やってるか、母ちゃん』なんて。始めたころ、永六輔 さんが『演芸の世界にとんでもないのが出てきた』って評論を書いてくださったのを見て、とてもうれしかったのを覚えています」(朝日新聞:2011年1月27日夕刊「人生の贈りもの」)

 2019年4月8日、肺気腫のため85歳で亡くなった。家族に見守られながら安らかな旅立ちだった。その後も私は北海道の中標津を訪れるたび、温泉ホテルTに泊まっているが、早朝の一番風呂に入るとケーシーさんとの出会いを思い出す。「知性あふれる下ネタ」が懐かしい。

 次回は、19年前、急性骨髄性白血病のため惜しまれつつ38歳で旅立った本田美奈子. さん(1967~2005)。アイドル歌手としてデビューしつつも、圧倒的な歌唱力で人気を博した歌姫の素顔に迫ります。

小泉信一(こいずみ・しんいち)
朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴35年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)、『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。

デイリー新潮編集部

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