若者は脱落の「不適切にもほどがある!」 中高年ほどハマるのは“昭和ノスタルジー”というより“令和のなろう系”だから?

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地方の若者、家業への葛藤、母親の死……「取り残された人たち」を描いてきたクドカン

 ちなみに宮藤さんは「取り残されてしまった人たち」にずっと目を向けている人だと思う。「木更津キャッツアイ」のように、交通網開発によってシャッター商店街化が進んでしまった東京近郊の若者だったり、「俺の家の話」のように最盛期が過ぎたことを自覚したプロレスラーだったり。過疎に悩む地方が舞台の「あまちゃん」には東日本大震災のシーンもあった。政治とか年齢とか自然災害といった、自分ひとりではどうにもならない力によって、ある場所に踏みとどまざるを得なかった人たちを描いてきたように思うのだ。「不適切~」も、時代に取り残された男性の奮闘劇という軸がある。

 また「母から取り残される子ども」という設定も多い。「不適切~」ではヒロイン・純子の母は亡くなっているが、母と死に別れている主人公は他にもいる。「木更津〜」で岡田准一さん演じるぶっさんや「タイガー&ドラゴン」で長瀬智也さん演じる山崎虎児。ちなみに長瀬さんは「俺の家の話」でも実母が病に倒れているという役だった。

「取り残された人たち」は、社会や時代の大きな流れに対して語る場も言葉も持たない。無条件に話を聞いてくれるはずの母が不在の家庭で、子どもたちはあきらめと背中合わせの大人びた雰囲気を身に付けていく。しかし必要以上にお涙頂戴の演出には使わないのがクドカン流。主人公が死ぬことさえあるが、自分の現在地に卑屈になりすぎることはなく、みんなカラッとしている。仕事に励み、恋をして(不倫するキャラも多い)、地元の悪友や家族と笑い合う。巨悪を倒すとか、大富豪になるといった大きなカタルシスとは無縁の生き方だが、だからこそ日々の「心許せる相手と心置きなく話せる」ことの尊さと普遍性を、宮藤さんは静かに提示し続けてきたのではないだろうか。

 失われた30年を生きてきた世代もまた、「安心・安全」な未来から取り残された人でもある。自己完結グセを身に付け、腹の探り合いばかりしてしまう。でも、それに疲れているのは、昭和生まれだけではない。平成生まれもきっと同じはずだ。

「不適切〜」はコンプラ表現や昭和ネタばかりが取り沙汰されるが、誰かと比べて自分の価値や本音を封じ込めることの痛ましさも描いている。それは世代や性別を問わず、自己完結して自家中毒を起こしがちな人にこそ届くべきメッセージだろう。若者層との意識差ばかり論じ、昭和世代のノスタルジードラマという枠に押し込めてしまうことこそ「不適切にもほどがある」のではないだろうか。

冨士海ネコ(ライター)

デイリー新潮編集部

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