「ある国の役員が審判に贈り物を…」 男・山根明の息子が明かすボクシング業界の闇と「山根騒動」の裏側
「半年ほど車上生活を送ったことも」
朝鮮半島出身の両親のもと大阪府堺市に生まれた明氏は、30代で奈良県のボクシング連盟の強化を任され、そこでの成功を足掛かりに出世していった。だが、ボクシングでカネが稼げるわけもなく、活動および生活の費用は、2人目以降の妻や昌守氏に頼っていた。
「私の母はオヤジの最初の妻でした。子どもながら鮮明に覚えていますが、私が5歳の時に二人は離婚して、そこから半年ほどオヤジと車上生活を送ったこともありました。オヤジがボクシングにどっぷりと浸かり出したのは、私が中学生になった頃からでしょうか。その時はもう2人目の奥さんがいたのですが、彼女は苦労したと思います。昼夜休まずに働き、オヤジの活動のための費用を捻出していました」(同)
その後、昌守氏は自動車販売などの実業で才覚を発揮して財を成す。30代前半から17年までの約20年間、明氏の活動を計数千万円出して支える中、昌守氏も日本ボクシング連盟の要職に就いていった。
ボクシング界の裏
初めて昌守氏がボクシング界の裏を見たのは00年のシドニー五輪だった。
「ある国の役員が審判に贈り物を渡し、談笑している現場を目の当たりにしたのです。さすがにショックでしたが、オヤジは“これが現実や。だから、世界をコントロールできるようにならんとあかん”と。そこから常に“選手はリングで、役員はリングの外で力を発揮するんや”と言われるようになりました」(同)
こうして二人三脚で歩んできた親子だったが、実は昌守氏は“山根騒動”が本格化する少し前、明氏と衝突していた。以降、両者はギクシャクした関係が続いたという。
「17年当時、仲間内にクーデター派のスパイがいたのですが、私がオヤジにそれを指摘したら頭ごなしに否定され、なぜか怒られまでしてしまった。そこでお互いに“だったらもうええ”となりました。その後、会う機会がめっきり減ってしまったのです」(同)
しかし、親子は心の底ではつながっていた。
「オヤジは亡くなる前、周囲に私と会いたいと言ってくれていたそうです。最後にありがとうと伝えられて心からよかった。私が今こうしてやれているのも、いろんな貴重な経験ができたのも、すべてオヤジのおかげです。滅茶苦茶でしたが、とんでもない大物だったと思います」(同)
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