韓国で神聖視される「三・一運動」の裏で起きていたこと――内紛、脅迫、デモ参加者水増し
今から105年前の今日、すなわち1919年の3月1日、植民地時代の朝鮮で大日本帝国からの独立運動「三・一運動」が発生した。現在の韓国では、独立への輝かしい第一歩を刻んだ日として国民の祝日とされており、毎年記念イベントが開催されている。
では、「三・一運動」とはどのようなものだったのか。朝鮮史の研究者で、フェリス女学院大学教授の新城道彦さんのサントリー学芸賞受賞作『朝鮮半島の歴史 政争と外患の六百年』(新潮選書)から、一部を再編集してお届けする。
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韓国併合から9年後の1919年1月に高宗が徳寿宮で息を引き取ると、日本政府は京城(けいじょう、併合後の漢城)で国葬することを決めた。一般の告別式に当たる「葬場祭の儀」が3月3日に設定されたため、2月末になると地方の人々が葬儀見物を目的に続々と京城に集まりはじめた。
前年の1918年にはアメリカのウィルソン大統領が第1次世界大戦後の国際秩序を構想して民族自決を含む14カ条の平和原則を提唱していた。民族自決とは、各民族が自らの意志にもとづいて運命を決する権利を持ち、他の民族や国家による干渉を認めないとする考え方である。ただし、これはヨーロッパの民族を想定しており、朝鮮とは基本的に無縁であった。
とはいえ、朝鮮の独立運動家にとっては希望の光となる。彼らは高宗の国葬によって人々が京城に集まるという好機をとらえ、大衆を動員した独立運動を起こそうと考えた。東京在住の朝鮮人学生も、1919年2月8日に二・八独立宣言書を発表し、運動実践のために朝鮮に戻っていった。
そのころ京城では延禧専門学校や京城医学専門学校の学生たちがたびたび各校の代表会議を開いて国葬の際に事を起こす計画を練り上げていた。他方で、天道教教主の孫秉熙(ソンビョンヒ)もキリスト教や仏教とともに宗教界で団結し、独立宣言書を朗読することをもくろんでいた。
天道教を中心とする宗教団体が考えた独立宣言書は「排他的感情に逸走せず〈中略〉一切の行動は秩序を尊重して公明正大に行え」と謳っており、暴動を起こしてまですぐに独立を実現するような計画ではなかった。彼らが考えていたのは、京城の中心にあるパゴダ公園で独立宣言書を読み上げ、朝鮮の民衆および日本や欧米に対して独立の意志をアピールする程度の、いわばパフォーマンス的な計画だったのである。
それゆえ、血気にはやる学生たちを「意見浅薄」と蔑視しており、連携する考えなどなかった。それどころか、学生たちの動きを察知すると手柄を横取りされるのではないかと焦り、2月末には天道教幹部の権東鎮(クォンドンジン)が宇都宮太郎朝鮮軍司令官を訪問して「国葬の際には何等かの出来事無しとも限らず、用心せよ」とリークしている。
結局、宗教団体は学生たちに先立って3月1日に独立宣言書を読み上げることとし、会場も騒動を避けるためにパゴダ公園から泰和館という料亭に変更した。当日、3~4人の学生が泰和館に来て「多数の学生がパゴダ公園に集まって居るのに何故来ぬか、来て呉(くれ)ねば拳銃で射する」と脅したが、孫秉熙は「若い者が腕力を以て騒ごうとして成就するものではない。自分達はお前達と事を共にする事は出来ぬ故、お前達で勝手にするが良かろう」とあしらっている。
一方、パゴダ公園では実力行使を望む者たちが独立を宣言して群衆を煽った。これをきっかけとして「独立万歳」を叫びながら示威行進する、いわゆる三・一運動(万歳騒擾)がはじまった。
宗教団体が考えていた「非暴力の原則」は守られず、群衆は鎌や棍棒を手にして次々と警察署や役場を襲い、官憲を殺害するなどした。他方で日本側も軍隊を出動して群衆を弾圧したため、多くの人々が犠牲となっている。京畿道堤岩里(チェアムリ)では軍隊が住民30名ほどを教会に閉じ込めて虐殺する凄惨な事件も発生した。
なお、京城で出版業に携わった釋尾しゅんじょうは、三・一運動の開始からひと月ほどたった朝鮮社会のようすを次のように記録している。
「騒擾煽動者は近来は誰でも構はぬ騒擾団に加はり万歳を唱へさへすれば五十銭を与ふると云ふことにして浮浪人や労働者を誘ふて居る、其れが為めか近来の騒擾団は学生が少くなり、労働者風の者が多くなつて来た、朝鮮独立万歳の声も一声五十銭とは高いやうで易い〈原文ママ〉やうな感じがする」(『朝鮮併合史』)
デモを行う際に人を買収して参加者数を水増しすることは珍しくないが、韓国で神聖視されている三・一運動においてもそれは同じであった。
※新城道彦『朝鮮半島の歴史 政争と外患の六百年』(新潮選書)から一部を再編集。