新庄監督と立浪監督は続けるか? “2年連続”の低迷からチームを復活させた「監督列伝」
3年目の雪辱
一昨年、昨年と2年連続最下位に終わった中日・立浪和義、日本ハム・新庄剛志両監督が“背水の陣”の3年目を迎える。2年連続テールエンドからの巻き返しは容易なことではないが、過去にはこの苦境を跳ね返し、順位を上げた監督も存在する。【久保田龍雄/ライター】
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立浪、新庄両監督同様、2年連続最下位に沈みながら、3年目にチームを2位に躍進させたのが、阪神・中村勝広監督である。
1990年、村山実監督のあとを受けて、“切り札”として虎の再建を託されたが、バースと掛布雅之が抜けた打線は迫力不足で、投手陣も層が薄かった。
1年目は優勝した巨人に36ゲーム差の最下位と結果を出せず、翌91年も広島に26ゲーム差の最下位。6月に球団ワーストの10連敗を記録した直後には、解任も噂されたが、久万俊二郎オーナーが「現在の不振はフロントの怠慢による積悪の報い。監督を替える気はない」と明言し、異例の8月に留任が発表された。中村監督も「今辞めてしまうと、辛いことばかりで終わってしまう」と3年目の雪辱を期した。
そして「今年ダメならユニホームを脱ぐしかない」と覚悟して臨んだ92年は、甲子園のラッキーゾーン撤廃で投手有利になり、打線もオマリー、パチョレックの両助っ人に、亀山努、新庄剛志の“亀新コンビ”も台頭、6月9日には7年ぶりの単独首位に立った。
前半戦を2位で折り返した阪神は、8月のロードを10勝6敗と勝ち越すなど、7年ぶりVも目前だったが、終盤に5連敗と失速し、土壇場でヤクルトに逆転を許した。それでも、巨人と同率の2位は、過去5年で最下位4度の“ダメ虎”からの脱皮を予感させた。だが、翌93年以降は、トレード失敗などで投打がかみ合わず、再びBクラスの常連に逆戻り。中村監督も95年7月に休養し、そのまま辞任した。
「黒い霧事件」の渦中に監督就任
2年連続を上回る3年連続最下位からチームを浮上させたのが、西鉄・太平洋時代の稲尾和久監督である。
1970年、32歳の若さで監督就任も、当時チームは「黒い霧事件」(プロ野球関係者が八百長に関与したとされる一連の事件)の渦中にあり、どこまで騒ぎが拡大していくか、不安だらけだった。
はたして、1年目は同事件でエース・池永正明が永久追放(2005年に復権)になったのをはじめ、チームの主力6人が処分を受けた影響で、優勝したロッテに34ゲーム差の最下位に沈む。翌71年は阪急に43.5ゲーム差、72年も阪急に32.5ゲーム差で3年連続最下位となり、12億円以上の累積赤字を抱えた西鉄に代わって、太平洋クラブが球団経営を引き継いだ。
この間、「とにかく経験を積ませるしかない」と辛抱して使いつづけた東尾修が72年に18勝を挙げ、17勝で新人王を獲得した加藤初とダブルエースを確立。打線も基満男が初の打率3割と20本塁打を達成し、ようやく戦力が整いつつあった。
2シーズン制が導入された翌73年は、開幕5連勝で単独首位に立つなど、久しぶりに博多のファンを熱狂させ、前期4位、後期5位のシーズン4位で“指定席”を脱出。そして、翌74年は前期3位で、Aクラス入りを実現した。
だが、オフに東尾、加藤をトレード要員にしたい編成担当と対立し、トレードは阻止できたが、自身は解任の憂き目に……。志半ばでチームを去った稲尾監督は「昭和59年から3年間率いたロッテといい、私の監督生活は、選手が育ってきて、さあこれからというところでおしまいとなる。一度本当に勝負が張られるチームを指揮してみたかった」(自著『私の履歴書 神様・仏様・稲尾様』日本経済新聞社)と不完全燃焼の思いを吐露している。
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