ラッシャー木村「こんばんは事件」から始まった猪木vsはぐれ国際軍団 最高視聴率26%を記録した名勝負の舞台裏
伝説の事件
「こんばんは」
宣戦布告のため、私服姿でリングに上がり、猪木と戦うことへの気持ちをマイクで聞かれた木村の第一声がこれだった(1981年9月23日)。
会場の田園コロシアムは失笑に包まれた。猪木は、俗に言うこの“こんばんは事件”についても、こう回想している。
〈観客に笑われたら、レスラーは終わりだ。それを挽回するのは容易なことじゃない〉(同)
そして、猪木とはぐれ国際軍団の抗争は、この図式をそのまま引きずってしまった感があった。嘲笑の対象としての国際軍団と、それを成敗する猪木という構図である。
猪木がロープブレイクにも拘わらず腕ひしぎ逆十字固めを木村にかけ続け、反則負けになっても歓喜する観客(1981年10月8日)。猪木が木村を痛め続けることをむしろ喜んでいた。場外へ落ちたらセコンドが選手をリング内に押し戻し、完全決着を謳うランバージャック・デスマッチでは、猪木が場外をゆうゆうと歩いていた(同年11月5日)。一方で木村はすぐにリング内に押し返されていたが、これにも狂喜の大歓声が上がった。
対して、国際軍団には入退場時、紙コップ等、沢山のものが投げ当てられた。もちろん、「こんばんは」の迷言以外にも、この状況を生み出した原因はさまざまにあるだろう。“実力世界一”を標榜していた猪木、ゆえに全日本の雄、ジャイアント馬場を何度も挑発するものの、対戦が実現しない実状。そして、そんな様相下に現れた、潰れた他団体の残党……。稀代のヒール軍団が誕生する条件は揃い過ぎていたのだ。
加えて言えば、前出の2試合を放映した回の視聴率は、それぞれ20.5%に22.2%。それはこの1981年の「ワールドプロレスリング」において、2位と1位の数字となった。そんな熱い抗争のピークが、「こんばんは事件」より1年を経て行われた、83年2月の1vs3マッチだったのである。
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