「沖縄戦」で“部下の9割を失った”指揮官は遺族に贖罪の手紙を送り続けた… 戦没者の妻、父母からの356通の返信が伝えるメッセージ
「亡くなった父母に会えるような気がします」
そんな折、遺骨収集の先輩である北海道斜里町の井上徳男さん・富美子さん夫妻から、携帯電話に着信があった。徳男さんは沖縄戦で亡くした兄の遺骨を探すため、約15年間、戦没場所の本島南部などに通い詰め、収容活動に励んでいた。終戦から60年の節目の年に引退されて、今は地元で過ごされている。
そもそも私たち夫婦が遺骨収集に関わるきっかけは、このご夫妻を取材したことだった。記者の仕事としてだけでなくひとりの日本人として戦争と向き合ってみなさい、と諭されたのだ。それ以降、毎年、沖縄で一緒に活動した。引退されてからも、道東の遺族を訪ねる時は必ず挨拶に伺っている。
近況を伝え合った後、手紙の遺族の連絡先が掴めないことを話してみた。
「浜田さん、水くさいよ! なんでもっと早く相談しない」
叱る言葉が、協力を快諾してくれた証だった。数日後、なんと所属する斜里町の遺族会に該当する方がいるとの連絡が届いた。夫を亡くした妻で、井上夫妻と一緒に慰霊のために沖縄を訪ねたことがあるという。すでに逝去されているが、子供が2人いたはずとの情報だった。
早速、斜里町遺族会へ連絡すると、副会長の今村信春さんが対応してくださり、消息を調べてくれた。日を置かずして、道内と関西地方に兄弟がいることが判明。すぐに問い合わせてみたところ、2人とも同じ返答だった。
「辛い想い出しか残っていないので、そっとしておいてほしい。手紙は処分してくれていい」
落胆を押し隠して、今村さんへ報告する。
「そうですか、それは残念でした。私の父も沖縄で戦死しましたが、遺骨も遺留品も何も還っていません。父の物は何も残っていないのです。部隊の大隊長とやり取りされた手紙があるなんて……」
今村さんはそう言って同じ境遇の遺族を羨ましがった。その一言が気になった。
「え? お父さまは沖縄戦で亡くなられたのですか。氏名は判りますか」
「はい。詳しい戦没場所は判りませんが、間違いありません。父の名は勝で、母はツルヨです」
もしやと思って差出人の一覧表を検索すると、なんと伊東大隊の第2中隊に今村勝上等兵の名前があり、手紙は斜里町に住む妻・ツルヨさんが書いていることが判明。
あまりの偶然に驚きながら、今村さんに知らせる。
「えっ、母が大隊長へ書いた手紙があるって! それはどんな内容? いったい何が書かれていますか。読んでみたい、いや、可能ならばコピーでいいのでもらえませんか。何度も言いますが、父に関する資料は何もないのです。なんとか、なんとかお願いします」
手紙は預かったが、その写しを渡していいものかどうか、私たちでは判断できない。
すぐに大隊長へ許可を求めたところ、
「コピー? いやそれは原本を差し上げなさい。手紙の封書、便箋、切手、書体、筆圧など、その当時のご遺族が書かれた物を、そのままお届けしたほうがいい。私のほうこそ写しで十分だ」
すぐさま今村さんへ伝えると、
「ほんとうですか! ありがとうございます。父が生きた証が綴られているものに触れることができるのは、何よりもの願いでした。亡くなった父母に会えるような気がします。早く内容を読んでみたい」
電話口の声が震えていた。
この時から、遺族へ手紙を返還するのと同時に、戦没者の人となり、遺族の戦後の人生、想いなどを聞き取る「時空を超える旅」が始まったのだ。
やっと連絡先がわかっても、連絡を受けるご遺族としては、70年前の話が突然目の前に甦るのだから、驚くなと言うほうが無理だろう。電話を切られても、切られても、諦めず連絡を取り続けるうちに、戦争で家族を失った電話口の方が耳を傾けてくれる例もあり、戦没者のきょうだいや甥姪、実子と連絡がつき始めた。私たち夫婦が初めての書籍『ずっと、ずっと帰りを待っていました―「沖縄戦」指揮官と遺族の往復書簡 ―』(新潮社)で紹介する手紙は、こうして探し当てた遺族の方々の厚意に支えられている。
書籍では、伊東大隊の戦いの軌跡を辿りながら、亡くなった部下の人となりと、その遺族から届いた手紙を紹介した。24歳の青年将校が沖縄の山野に今も眠り続ける部下たちと経験した戦いと遺族たちの想いを、あの戦争から遠く離れた現代を生きる人たちに知ってもらいたい。
今日も遺骨を発掘し、ご遺族からの手紙をその子孫に返還しながら、ただそのことを願っている。