「沖縄戦」で“部下の9割を失った”指揮官は遺族に贖罪の手紙を送り続けた… 戦没者の妻、父母からの356通の返信が伝えるメッセージ
「70年前の空気」を真空パックしたような356通の手紙
かくして終戦から71年が過ぎた2016年10月、私たち夫婦に一抱えほどの紙箱に詰め込まれた356通の手紙が託された。終戦直後の消印が押され、時の経過にさらされた封筒や葉書は少なからず黄ばみ、一部は黒ずんでいる。だが、破れたりしわが寄ったりしないよう仕分けられ、大切に保管されていたことがわかる。
折しも、遺骨収集で出会った10名近い大学生たちが、一緒に活動したいと申し出てくれた。そこで「みらいを紡ぐボランティア」というNPO団体を設立し、手紙の内容の精査を開始した。
なにせ70年前の書簡である。解読は困難を極めた。その多くに古い字体や言葉が使われ、候文も散見される。さらに、書家が揮毫(きごう)したかのような難解な筆跡もある。高齢の家族や古文書が読める友人に助けを求めながら、すべてに目を通して内容を要約し一覧表を作るまで、ほぼ3カ月を要した。
分析すると、差出人の約8割が北海道の遺族であることが見えてきた。
歩兵第32連隊は明治期に東北地方で編成された部隊で、山形県へ転営してからは山形城の別名にちなみ「霞城(かじょう)連隊」と呼ばれていた。太平洋戦争が始まる前の1939年、第8師団から第24師団へ所属を変更し、兵士の徴募先を山形県から北海道へ移している。ゆえに戦没者の大多数は、夕張や空知(そらち)地方など、戦前から炭鉱で栄えた地域から出征した兵士が占めていたのだ。
手紙の差出人は、夫の帰りを待ち続ける妻、息子の死を誉れと喜んでみせる父母、優しい兄や弟の面影を懐かしむきょうだいたちだった。その内容は、大切な家族を亡くした苦しみ、哀しみにむせぶものから、軍国主義を色濃く残したままの御礼文までさまざまだが、終戦当時の遺族の想いや厳しい暮らしぶりがまざまざと感じ取れる。まるで70年前の空気を真空パックしたかのような文面を読みながら、涙を堪え切れなくなることもしばしばだった。
これを世に出すには、手紙の差出人の遺族の了承を得る必要がある。ところが、手紙は主に1946年にやりとりされており、遺族の死去や転居、地名変更や自治体の消滅など、時間の経過が思いのほか高い壁として私たちの前に立ちはだかった。行政に問い合わせても、個人情報の保護を理由にほとんど教えてもらえず、途方に暮れてしまった。
とはいえ、地道に向き合う以外に手はないので、日本地名総覧をひもといて新旧の住所を重ね合わせ、古い電話帳を手に入れて差出人と似たような名前の人たちへ、片っぱしから電話をかけていく。が、巷を騒がせている「振り込め詐欺」の影響で、まともに取り合ってもらえない。「沖縄戦での戦没者の……」と話し始めた途端に電話を叩き切られたり、話を聞いてもらえても最後には怒鳴られたりすることもあり、心が折れそうになった。
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