「沖縄戦」で“部下の9割を失った”指揮官は遺族に贖罪の手紙を送り続けた… 戦没者の妻、父母からの356通の返信が伝えるメッセージ

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「時空を超える旅」へ

 結論から言えば、私たちは認識票の持ち主の特定につながる情報を伊東から得ることはできなかった。だが、この訪問が私たち夫婦を沖縄戦の遺族と指揮官を結び直す「時空を超える旅」へといざなっていくことになる。

 伊東は太平洋戦争の末期、連戦連敗だった日本軍にあって、米軍を苦しめた数少ない部隊の指揮官だ。

 1920年9月に宮城県で生まれ、幼少時より軍人を志し、1940年9月に陸軍士官学校を卒業すると、第24師団歩兵第32連隊へ配属された。1944年にソ連との国境を警備する満洲から沖縄へ転戦し、24歳の若さながら第1大隊長として1000人近い部下を率い、砲弾や銃弾などの“鉄の雨”が降り注いだと形容される激戦地を戦い抜いて生還している。

 その名を知らしめたのは、1945年5月初旬、反転攻勢を仕掛けた日本軍が米軍から陣地を奪還した戦いぶりである。だが、伊東も最終的には部下の9割を失う。生き残ってしまったことへの後悔と贖罪の意識、そして戦死した部下たちへの想いは、戦後の伊東を苛んだ。

 2016年3月に面会した時、伊東は95歳。部隊を率いていた当時から70年以上経っているが、歩く時も背筋はピンと伸びたままで、170センチを超える立派な体躯が若々しい。眼光の鋭さ、安易な発言は許されない雰囲気もあいまって、なお現役の佇まいである(この時から私たちは敬意と親しみを込めて「伊東大隊長」と呼びかけるようになったため、以下の呼称もそれにならう)。

 認識票についての話がひと段落したタイミングで、哲二はこう問いかけた。

「ところで、遺族に手紙を書かれたそうですが、返信が来たのではありませんか」

 終戦から半世紀が過ぎた2001年に伊東大隊長が出版した私家版の戦記『沖縄陸戦の命運』にあった《昭和二一年頃、戦死した部下の六〇〇人の遺族へ手紙を出した》との記述がどうしても気になっていたのだ。どのような手紙だったのか。返信はあったのか。

 というのも、遺骨収集活動を通して複数の遺族と面会した折、さまざまな質問を受けていたからだ。身内はどのようにして亡くなったのか、飢えていたのではないか、卑怯な振る舞いをしてはいないか……。戦後60年、70年が過ぎても、そうなのである。ましてや終戦の翌年、身内が所属した部隊の指揮官から届いた手紙への返信はいかほどのものだったのか、どうしても知りたかった。

 問いかけた時、伊東大隊長の表情が一変した。

「どうしてわかった!」

 こちらを射貫くような目つきのまま、くぐもった声へと変わる。

「そのとおりだ。届いている……」

 そして少し間を置いたあと、彼方を見るようにしながら、つぶやいた。

「これは私の心の傷、死ぬまで背負い続ける重責なのだ。ゆえに、元軍人だった父、妻や子にも話していない。手紙は誰にも見せるつもりはない。私が最期を迎えた時、棺に入れて焼いてくれるように遺言を残してある。ただ、遺言状は開封されていないゆえ、誰も知らなかったはずだ。よく気づいたな」

 それ以上は踏み込ませない述懐だった。

 それでも、私たちは内容を知りたいという気持ちを抑えきれなかった。今まで、書籍や資料館などで兵士が出征先から送った手紙や死地に赴く特攻隊員の遺書は読んだが、身内の死を受けた遺族の手紙は目にしたことがない。青森の自宅に戻ってから礼状をしたため、その最後に、ジャーナリストとして沖縄戦の記録と記憶を後世に残すために、遺族からの手紙を読ませてほしいと書き添えて投函した。

 時を置かずして返信がきた。マス目のついた原稿用紙に、毛筆で、一語ずつ丹念に書かれている。そこには生き残ってしまったことへの後悔と贖罪の意識、戦死した部下たちへの想いが切々と綴られていた。最後は《必ず答えを出す。自身の心が定まるまで猶予を頂きたい。私の心に残った戦争の傷が疼いている》と結ばれている。

 4カ月が過ぎた2016年8月、終戦記念日の少し前に分厚い封書が届いた。開封すると、前回と同じく、原稿用紙に毛筆の手書きの字がびっしりと書き込まれている。数えてみると11枚あった。

《戦争がゲームのように捉えられている昨今、人の殺し合いがどれだけ悲惨で残酷なものか、この遺族からの手紙が物語っている。これを世に出して、沖縄戦の真実をより多くの人に伝えてほしい》

《この手紙には、当時の国や軍、そして私の事が、様々な視点で綴られている。礼賛するものもあれば強く批判したものも。そうした内容の良いも悪いもすべてを伝えてほしい。手紙にしたためられた戦争犠牲者の真実を炙りだして戴きたい。どちらか一方に偏るならば、誰にも託さない》

《私もそろそろを考える齢。今まで数多くの記者や自衛官らに出版した戦記本を配り、取材を受けたが、遺族からの返信の存在に気付いた者は誰一人としていなかった。まさに、「眼光紙背に徹す」君たちを信じたい》

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