「沖縄戦」で“部下の9割を失った”指揮官は遺族に贖罪の手紙を送り続けた… 戦没者の妻、父母からの356通の返信が伝えるメッセージ

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錆びた認識票をつけていた兵士は誰か

 2015年2月、沖縄本島南部の糸満市喜屋武と福地に連なる丘陵地の探索を始めた。沖縄戦の末期、米軍が海から16インチ(約40センチメートル)砲などの艦砲を撃ち込み、空からは250キログラム爆弾などを投下したとされる激戦地。どうすればここまで破壊し尽くせるのか、息をのむような地形が続いている。

 壁面から剥がれ落ちて折り重なった巨岩の下を抜けると、表面が穴だらけの琉球石灰岩の塊が積み上がった小山がある。その中腹の小さな穴に潜り込んでいた律子が、何かを握りしめたまま這い出して来る。

「これって……」

 呟いた瞬間、上空を米軍の戦闘機が通り過ぎ、言葉が爆音でかき消される。律子の手には、縦長の楕円形で直径が4~5センチメートル、厚さ1ミリメートルほどの金属片があった。上下に小さな穴が開いている。経験から、旧日本兵の認識票ではないかという直感が働く。

 そうだとすれば、数年に1枚見つかるかどうかの貴重な遺留品だ。名前が刻まれていれば、遺族へ還すことができる。しかし、うっすらと文字らしきものが刻まれているようにも見えるものの、錆びて緑青(ろくしょう)が浮いた表面には小さな石灰岩の粒が無数に付着し、判読には至らない。

「隙間の奥にまだあるみたいなの。でも、私では手が届かない」

 石灰岩の粉塗れになった律子が唇を噛む。

「よし代わろう」

 今度は哲二が足から潜り込む。頭から入ってつかえてしまった場合、出られなくなる恐れがあるので、狭い場所ではこうするのが安全だ。横穴に身体を入れると、寝返りを打てるほどの空間がある。その奥の小さな岩が折り重なった隙間へ、肩まで差し込むほど手を伸ばすと、数枚の金属片に触れた。引き出してみると、すべてが旧日本兵の認識票の形状だった。

 これ以上は手が届かないが、まだ奥にあるかもしれない。いちど這い出した後、岩の隙間を広げるため、さらに掘り進む。すべて手作業なので、穴の中で自由に動けるようになるまで3日ほどかかった。

 持ち帰った遺留品は、弱酸性の薬品などで洗って乾燥させる。今回見つけた認識票は18枚。8枚は鉄製で手の施しようがないほどまでに錆びついているが、残りの10枚は真鍮製で表面に付着した黒や緑青の錆を磨くと刻み込まれた縦書きの文字が浮かび上がる。

 3列の表記になっており、右から「山三四七五」、中央に「三」や「六」、左端に「一一八」といった具合に読み取れる。判読できるすべてのプレートに共通しているのは「山三四七五」の数字だ。過去に何度か掘り出した経験から、これは沖縄守備隊の第24師団歩兵第32連隊を示す暗号で、中央の数字は中隊名、左端は個人を識別する番号だとわかる。

 だが、持ち主の氏名が刻まれていない限り、個人の識別は限りなく難しい。認識票の番号と個人の情報が記載されていた“留守名簿”などの書類がほとんど現存していないからだ。ただし今回は、表面の文字をすべて読み取れるものが10枚も揃っている。20年以上活動を続ける中で、これだけの数が一度に出土した記憶はない。なんとか身元を特定したい――。祈るような思いで役所や遺族会へ問い合わせたが、手掛かりすらなし。思い余って沖縄戦の別件の取材で親しくなったNHKの中村雄一郎記者に相談してみたところ、「第32連隊といえば、第一大隊を率いていた伊東孝一元大尉が、今もお元気で連絡先もわかる」と教えてくれた。一縷の望みにかけて、ご自宅を訪ねることにした。

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