文学に関心ナシ、朝寝坊の悪癖、異国の夫に手紙も出さず…文豪・夏目漱石が“悪妻”・鏡子と添い遂げた深すぎる理由
英国留学の間は手紙を出さず
漱石が鏡子夫人への嫌悪感を募らせたのは、明治33年からの英国留学の間だったといわれている。英国へ着いた漱石がいくら手紙を出しても、鏡子からの手紙がなかなか来ない。第2子が生まれるはずであり、名前まで考えているのに、生まれたか生まれないかの便りもない。漱石は鏡子宛ての手紙にこう書いている。
「国を出てから半年許りになる 少々厭気になつて帰り度なつた 御前の手紙は二本来た許りだ 其後の消息は分らない 多分無事だらうと思つて居る 御前でも子供でも死んだら電報位は来るだらうと思つて居る」(明治34年2月20日付けの手紙より)
漱石がロンドンで神経衰弱に陥った原因は、異国の夫に面倒がって手紙すら出さない鏡子の思いやりのなさにあるというのが定説にもなっている。
とにかく鏡子夫人に関しては、芸術家を支える内助の功とか、良妻賢母という言葉からは程遠い評価がつきまとっている。一言でいえば気の利かない“きつい女”で、何事にも堂々と自分を主張する性格で、女ゆえに遠慮しなければという古風な考えを持ち合わせていない。経済的にも淡泊で、外聞も気にせず質屋通いをする一方で、金があるときには乱費してしまう。夫の作品を理解しない世俗的な女で、夫の苦悩や芸術における葛藤などには無関心である、等々。
「漱石文学」は悪妻から生まれた?
漱石の自伝的小説といわれる「道草」には、こんな一説がある。
「夫と独立した自己の存在を主張しようとする細君を見ると健三はすぐ不快を感じた。動(やや)ともすると、『女の癖に』という気になった。それが一段劇しくなると忽(たちま)ち『何を生意気な』という言葉に変化した。細君の腹には『いくら女だって』という挨拶が何時(いつ)でも貯えてあった」
寄り添って暮らしながらも、相容れず不平不満を募らせるばかりの夫婦。この文豪の悲惨な夫婦生活に関して、ある近代文学研究者は次のように記している。
「漱石が、いわゆるその理想の夫人をめとったならば、漱石はあるいはこれほどの暗たんとした人生観に追いこまれなかったにちがいない。しかし、われわれは漱石が理想の夫人をめとらなかったがゆえに、近代人の苦もんをあのようにみごとに文章に彫刻したすぐれた漱石文学を持ち得たのだともいうことができる」(早稲田大学教授・川副国基「マドモアゼル」1961年1月号より)
[2/4ページ]