【小澤征爾さん死去】武満徹さんを世界に送り出した伝説の名曲「ノヴェンバ―・ステップス」初演指揮の舞台裏

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永六輔も驚いた演奏

 1967年11月9日、初演は大成功だった。演奏開始までは、なんとなくざわついていた客席も、音楽の美しさに引っ張られ、すぐに静まりかえった。終演後はブラボーの嵐となった。4人は何度もカーテンコールに呼び出される(横山はあまりの緊張と消耗で、血尿が出ていた)。客席にはペンデレツキやコープランドといった巨匠作曲家もいて、大絶賛してくれた。バーンスタインに至っては「何という強い音楽だ」と泣き出した。翌日のニューヨーク・タイムズ紙も「タケミツは欧米の作曲家より洗練されている」「ツルタの琵琶は威厳がある。ヨコヤマの尺八は芳醇な音色で、NYフィルのフルート奏者も嫉妬したのでは」との好評を掲載した。

「アメリカ人にとっては、初めて見る楽器、初めて聴く音色ですから、先入観なく接することができたのだと思います。しかし、やはり日本人には、違和感をおぼえるひともいたようです」

 そのひとりが、永六輔だった。武満の回想。

〈彼はたまたまニューヨークに来ていて、聞きにきたらしいんです。その感想をどこかに書いていたんですが「気持ち悪かった」というんです。着物を着た人が燕尾服を着たオーケストラの前に出てきて、「ベーン」と音を出すのを聞いたら、気持ち悪くて鳥肌が立ったというようなことを書いていた。ぼくは自分でも、とんでもなく変なことをしてしまったのではないかと思っていたところだったので、その感じがよくわかるんです。〉(『武満徹・音楽創造の旅』より)

 それでも、翌1968年6月には同メンバーと日本フィルハーモニー交響楽団によって日本初演され、これも大好評だった。すぐに世界中で演奏されるようになり、小澤・武満の、そして鶴田・横山の“名刺”がわりのような名曲となった。鶴田は「200回くらいまでは数えていましたが、それ以上は何回演奏したか、もうわかりません」と語っていた。

 対談集『音楽』の後記で、武満はこう回想している。

〈『ノヴェンバー・ステップス』を作曲して、その録音のためにトロントの小澤征爾の家に寄宿した数週間、暇さえあれば、私たちは音楽や映画のこと、政治社会の事柄を語りあった。私も未だ三十代であったし、小澤は三十そこそこであった。〉

 あれから57年の歳月が流れた。その間、1995年に鶴田錦史が84歳で逝去。1996年に武満徹が65歳で逝去。2010年に横山勝也が75歳で逝去。そして今年、この曲を、そして武満徹を世界の檜舞台に導いた小澤征爾が88歳で逝去し、《ノヴェンバー・ステップス》を生み出した4人は全員が鬼籍に入った。

 評論家・吉田秀和は、こう書いている——〈あの時あれができたのは小澤がいたからだ〉(「すばる」2012年4月号~「思い出の中の友達たち」より)。

 いまも、この曲は世界中で演奏されている。羽織袴を見て笑うものは、もうどこにもいない。

「小澤さんの訃報が速報で流れたのは、2月9日夜7時前後でした。そのとき、サントリーホールでは、読売日本交響楽団の第635回定期演奏会が開催されていました。演奏は、指揮=山田和樹、琵琶=友吉鶴心、尺八=藤原道山。曲は……」

《ノヴェンバー・ステップス》だった。

【そのほかの主要参考資料】
「武満徹全集 第1巻」小学館出版局武満徹全集編集室(小学館刊、2002年)
「武満徹 作曲家・人と作品」楢崎洋子(音楽之友社刊、2005年)
「さわり」佐宮圭(小学館刊、2011年)

富樫鉄火(とがし・てっか)
昭和の香り漂う音楽ライター。吹奏楽、クラシックなどのほか、本、舞台、映画などエンタメ全般を執筆。東京佼成ウインドオーケストラ、シエナ・ウインド・オーケストラなどの解説も手がける。

デイリー新潮編集部

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