【小澤征爾さん死去】武満徹さんを世界に送り出した伝説の名曲「ノヴェンバ―・ステップス」初演指揮の舞台裏
小澤征爾と武満徹
“世界のオザワ”、小澤征爾の逝去を惜しむ声は、世界中でつづいている。29年間音楽監督をつとめたボストン交響楽団は、人気指揮者カリーナ・カネラキスのタクトで、追悼演奏《G線上のアリア》を捧げた。そのステージ上には、日本の音楽写真家・木之下晃(1936〜2015)が撮影した、小澤の指揮姿のポートレイトが掲げられた。
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小澤征爾は、海外のコンクールで優勝し、“逆輸入”のような形でNHK交響楽団に迎えられた。だが、海外流のスタイルが旧態依然たるN響と合わず、ボイコット騒動に。小澤は日本を飛び出してしまう。そして「東洋人に西洋クラシック音楽はできない」といわれていた状況を、ひとりで変えていくのである。
「しかし、小澤さんが切り拓いた道は、それだけではありません。小澤さんは、日本で『音楽以前』とまで酷評されていた武満徹さんを海外へ紹介し、“世界のタケミツ”にしたのです」
と語るのは、ベテラン音楽ジャーナリストである。武満徹の名が世界に知られるきっかけとなったのは、1967年の名曲《ノヴェンバー・ステップス》である。その初演指揮が、小澤征爾だったのだ。
「しかし、指揮だけでなく、曲の誕生自体にも、小澤さんが深くかかわっていたのです。小澤さんは、武満さんの音楽は世界に通じると、最後まで信じ貫き通しました。一方、武満さんは、自分の音楽は小澤さんに託せば間違いないと確信し、すべてをまかせました。まだ30歳代だった2人の青年は、お互いを信じ、励まし合いながら、道なき道を切り拓いて行ったのです」
その“道なき道”とは、さらに二人の友情関係とは、どのようなものだったのだろうか。
N響事件の前年に知り合った二人
武満徹は、1930(昭和5)年、東京に生まれたが、父親の転勤ですぐに満州・大連に転居。6年間を中国で過ごす。小澤征爾より5歳年上になる。ちなみに小澤も満州・奉天で生まれ育ち、6歳までを中国で過ごしている。
「武満さんは、音楽はほとんど独学です。音大も出ていません。当初はピアノを買うカネもなく、ピアノのある家を訪ねて、弾かせてもらっていました。後年、見かねた黛敏郎が、古いピアノを譲りわたしたほどです」(音楽ジャーナリスト)
やがて新進の現代作曲家として作品を発表し始めるが、なかなか一般には理解されなかった。小澤征爾・武満徹の対談集『音楽』(新潮社刊、1981年。現・新潮文庫)で、武満はこう語っている。
〈『弦楽のためのレクイエム』。あの曲はあとであなたが一生懸命にやってくれて、本当にありがたかったんだけれども、日本で最初にやった時はぼろくそだったんだよ。こんなのは音楽じゃない、やめなさいというようなことまで書かれたんだから(笑)。(略)最初のデビュー曲の時だけど新宿で新聞買ってね、ちらっと見たら、きついこと書いてあるんだね。(略)「音楽以前である」と一言。それで終わり。目の前が真っ暗になって……。(略)泣きたいだけ泣いてね、もうおれは音楽をやらなくてもいいと思ったの。〉
そんな武満が小澤と初めて出会ったのは、1961年8月のことだった。
「当時、小澤さんはニューヨーク・フィルの副指揮者として、バーンスタインの来日公演に帯同し、2年ぶりに帰国していました。N響事件の前年です。そして第4回現代音楽祭で指揮します。そのなかに、武満さんの《リング〔環〕》があったのです」
そのときの驚きを、武満は、こう回想している。
〈初演のタクトは小沢がとったのだが、そのころ、小沢征爾は私にとっては無名の指揮者だった。(略)私の作品は小編成ではあるが、単純なものではなかった。私は、小沢が私の作品を暗譜しているなどということを想像してもいなかった。私は私の音楽をあれほど楽しげに演奏した指揮者を知らない。〉(武満徹『音、沈黙と測りあえるほどに』より、新潮社刊、1971年)
小澤はどう感じたのか。対談集『音楽』のなかで、こう述べている。
〈小澤 そのとき楽譜もらってね。ほんとにきれいな音だと思ったよ。(略)赤坂プリンスのバーにピアノがあってね。弾いてみたんだよ。
武満 あれが君との最初の出会いだったけれども、感激的だったね。指揮者というのがこんなにね、勉強するのかと……。
小澤 僕も感激だった。〉
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