「ママ、もうこれ以上は我慢できない」と男性は叫んだ…モスクワ劇場テロ占拠事件、極限状態58時間からの脱出と“特殊ガス”
「特殊ガスが人質を救い、特殊ガスが人質を殺した」
「ガスの匂いを嗅いだとき、これで本格的な銃撃戦が始まると思いました。死ぬかもしれないと覚悟は決めましたが、生きていたいと思いました。わたしはガスで気を失うことはありませんでした。ですから救助部隊が突入してくるのがわかりました。そして『意識のある人は出てください』と言われたので、床に伏せていたわたしは頭と手で合図をしました。
でもボーイフレンドのゼーニヤは意識を失っていました。彼を外に引きずり出そうとしましたが、救助部隊に制されました。『とにかくあなたは先に出なさい』と言われ、ゼーニヤとは別の救助部隊によって救出された。そして、マイクロバスに乗せられました」
事件直後のロシア内務省の発表は、人質の犠牲67人、解放された人質約750人であった。それはモスクワ市の発表ですぐ否定される。現在のところでは、その後に死亡した人も含め、死者は128人、うち2人が武装グループの射殺で、あとはほぼガス中毒が原因とされた。「特殊ガスが人質を救い、特殊ガスが人質を殺した」(前出のゲオルギー・ワシリエフ)と言われるゆえんである。
また武装グループは当初、50名とされていたが、総勢41人となり、その全員が射殺されていた。現在ロシアではその遺体を、豚の皮で包んで埋葬するという突飛なアイデアが検討されている。イスラム教では、豚に触れてからだが穢れると、天国に行けない――のだという。
精神的にはトラウマを負った
特殊ガスで死んだのは劇場の客席前方に座っていた人たちという説がある。確かに、ロシアの各新聞、雑誌のインタビューに答えているのは、1階後方か、2階にいた人たちである。ダーリヤも1階後方だった。
このガスについてロシアはその公表を拒みつづけ、国際的な圧力から10月30日になって、麻酔剤フェンタニルを基礎に調合されたガスであることをようやく明らかにした。だが、外国人人質の血液や尿検査の結果などから異論も数多く出されている。
「わたしは特に自覚症状があったわけではありません。ですが、特殊機関からの取調べがすまない限り退院できないと言われました。取調べがあったのは、27日でした。特に何を聞かれるというわけでなく、一般的な話をしたあと『街を歩いていて劇場で見たテロリストの顔と似た人がいたら、すぐに連絡してください』と言われ、終わりました。
いまもありがたいことに肉体的には何の問題もありません。でも精神的にはトラウマを負ってしまった。例えば、テレビや雑誌で軍服や自動小銃、さらにはカミカゼたちが着ていた服装に似たものを見ると、ドキッとして体中に緊張が走ります。もうひとつ辛いことがあって、それは大きな鋭い音です。例えばシャンパンを開けたときなどの音。こういう音を耳にすると、胸がひどく締め付けられます。いつになったらこの苦しみから解放されるのでしょうか」
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