研ナオコが志村けんや八代亜紀、りりィら“天国の盟友”への思いを吐露「最期の顔が本当にきれいでした……」
記録と記憶で読み解く 未来へつなぐ平成・昭和ポップス 研ナオコ(3)
連載『記録と記憶で読み解く 未来へつなぐ平成・昭和ポップス』では、昭和から平成初期にかけて、たくさんの名曲を生み出したアーティスト(もしくは関係者)にインタビューを敢行。令和の今、Spotifyなどの音楽ストリーミングサービス(サブスク)で人気の楽曲をランキング化し、各曲にまつわるエピソードを深掘りすることで、より幅広いリスナーにアーティストの魅力を伝えていく企画である。
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3回にわたり登場してもらったのは、歌謡界のベテラン・研ナオコ。インタビュー第1弾では、現在Spotifyで人気TOP3の楽曲について、さらに第2弾では、中島みゆき提供作品や、田原俊彦とのデュエット「夏ざかりほの字組」などのヒット曲について振り返ってもらった。研ナオコ編の最終回となる第3弾では、近年、天国へと旅立っていった歌手仲間や、今後の予定について語ってもらおう。
(インタビュー第1弾→研ナオコ、令和でも大人気の中島みゆき提供曲「あばよ」のヒットを振り返り「レコード大賞はいらないと即答しました」 / 第2弾→研ナオコが明かす、中島みゆきやTHE ALFE、田原俊彦との“リアルな関係性”「トシは、ずっと弟のような存在」)
同年代歌手らの訃報受け、心境は? 志村けんとの“伝説コント”も振り返る
まずは、Spotify第23位に入った「悲しい女」から。本作は、2023年10月に亡くなった谷村新司の提供作。研ナオコは同年11月のコンサートで、涙まじりに哀悼の意を述べながらも、果敢に歌ってみせた。
「谷村さんとは、(彼が所属するバンド、アリスとの)デビュー時期がほとんど一緒で、テレビ局やラジオ局で顔を合わせることも多かったんです。あるとき、谷村さんがご自身の楽屋から、遠くにいた私のほうをパッと見たので、ニコっと挨拶をしたんですが、あとで“楽屋泥棒がいたのかと思ったよ(笑)”なんて言われて(笑)。“勘弁してくださいよ~”って言い返したのを覚えています。当時は実際、裏方スタッフのふりをして楽器を持って行ってしまう“楽屋泥棒”が流行(はや)っていたんですって。でも、そこから仲良くしていただいて、あるテレビ番組ではクリスマスソングを一緒に歌ったこともあります。私、普段は年末のディナーショーですらクリスマスソングを歌わないのですが、“谷村さんとだったら”と、スタンダードなものを何曲か歌いました」
その後も、大橋純子や八代亜紀と、研ナオコと同年代の歌手が相次いで亡くなってしまったが、どういった心境なのだろうか……。
「こうやって、同じ時代を生きてきた方々の知らせ(訃報)が続くのは、悔しくてたまらない。とにかく、寂しい。そして、もったいない。大橋純子さんとは、歌番組でご一緒することが多くて仲良くさせていただいていましたし、八代亜紀さんは、いつもやさしくて共演の際にはうちの娘を気にかけてもらっていました。私も『舟唄』が好きで、自身の45周年アルバムでレコーディングしているのですが、その出来には納得していないんですよ。悔いが残っています」
ほかにも、コント番組での共演が多く、ユニット「けん♀♂けん」としてデュエット曲を歌ったことがある志村けんも’20年に亡くなっている。特に、「なまたまご~」「あかまむし~」と言いながら、研ナオコが志村けんを誘惑するという夫婦コントや芸者コントは、動画サイトでも関連動画が大量にヒットするほどの大人気だ。あの、なまめかしい独特のセリフは、どうやって生まれたのだろうか。
「あれは、番組の中でどんどんエスカレートしていったんです。最初は、“なまたまご~”って可愛く言っていたのですが、そのうち全部、鼻から声が抜けるようになりましたからね。(志村)けんちゃんが、いやらしい声で“これは~?”って誘ってくるんですよ。そうすると、こちらも、白目をむいて“なまたまご~”って返すしかないじゃないですか(笑)。けんちゃんとは、本当に長い間、ご一緒させてもらいましたね……」
さらに、第29位の「私は泣いています」は、シンガーソングライター・りりィのヒット曲(’74年発売)を、’16年に亡くなった彼女への哀悼の意を込めて、’19年にカバーしたものだ(第40位の「愛」もりりィのカバー)。
「りりィとは、デビューしたころからずっと仲良しで、彼女はギターを弾きながら日本酒を飲み、私は飲めないけれど、いつも一緒にいろんな話をしていましたね。あるとき、“ナオコちゃんのために曲を書いたから”と言って、弾き語りで『私は泣いています』を歌ってくれました。でも、“これはいい曲だから、りりィが自分で歌わなきゃダメ!”と言って断りました。それで、彼女が自分で歌ったものがパーッと売れて(オリコン最高3位、累計52万枚以上)、とってもうれしかったんです。
近年はSNSでずっとやりとりをしていて、“いつか同窓会をやろうね”って言っていたのに、私が45周年のツアーで全国をまわっていたときに突然、亡くなったという知らせが来て。そこから大急ぎで、東北から車で逢いに行きました。最期の顔が本当にきれいでした……。
こうやって悲しい知らせが続くと、“私、頑張んなきゃ!!”って、つくづく思いますね。みんなの分まで、なんらかの形で頑張って、昭和のいい曲にもっと目を向けてもらわなければ、という責任を感じています」
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