慶大、五輪日本代表→ドラ1でプロ入りした元ベイスターズ投手(54)の告白「入団前はある程度やれるだろうと考えていたが、現実は全然違った」
「最初から最後まで期待を裏切ってばかり……」
しかし、プロ入り早々、壁にぶつかった。当初は先発投手として期待されたものの、まったく結果が出ない。自慢のストレートは簡単に弾き返され、アマチュア時代に自信を持っていたスライダーも痛打され、シーズン途中から中継ぎに転向することとなる。
「先発ローテーション要員として指名されていたのに、先発投手としてはまったく機能せずに、すぐにセットアッパーとなり、獲得してくれた球団やスカウトの方々の期待をいきなり裏切ることになってしまいました。後から振り返れば、最初から最後まで、みなさんの期待を裏切ってばかりでしたね……」
アマチュア時代に投じていたスライダーが、プロではほとんど通用しなかった。自信喪失によって焦りが募り、気持ちだけが空回りする日々が続いた。
「アマチュアのバッターは見切りが早く、前でボールをさばくから打ち取れたんですけど、プロの場合はギリギリまで引きつけて打つので、見切られやすい。それまでは打ち取ることができた球も、プロでは簡単にヒットにされる。そうすると、“調子が悪いんじゃないか?”“ボールに勢いがないんじゃないのか?”と力んでしまう。そんな悪循環の繰り返しでした」
中継ぎ投手として、自分に与えられた役割を粛々とこなした。しかし、アマチュア時代から痛めていた右ひじが悲鳴を上げる。それでも、だましだまし投げ続けていたものの、プロ5年目の97年に手術を決意し、長いリハビリ生活に突入する。
「検査のために造影剤を入れてみたら、すぐに漏れてしまうんです。すでに靭帯が断裂していたんです。“手術しないと投げられない”ということだったので、迷わず決断しました。当時のベイスターズでは、手術についても、その後のリハビリについても、まだ経験者がいなかったので、トレーナーさんとともに、“これはどうだ? あれはどうだ?”と、いろいろなことを試しながら試行錯誤していました」
98年シーズン、チームは38年ぶりにリーグ制覇、さらには日本一にも輝いた。しかし、この年、小檜山は一度もマウンドに上がることはなかった。先の見えないリハビリ生活を続けていたからだ。
「優勝の瞬間のことは、よく覚えていません。家にいたのかもしれないけど、正直、いい気分じゃないから、横浜に飲みに行っていたのかな……あっ、思い出した。横浜で飲んでいました。お店の人から、“おめでとう”ってボトルをサービスされたけど、“いらないよ”って、断りましたね……」
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