大女優・原節子はなぜ隠遁生活を送ったのか…42歳で表舞台から去り、唯一あった結婚話の相手とは切ない共通点が
2人は好き合っているなぁと
かつて「原節子復帰10万人署名運動」を組織し、12万余の署名を持って原邸を訪れた織井美行氏という芸能プロ社長がいる。彼は小津映画の撮影現場に度々足を運び、間近に2人を見てきた。
「私は原さんの大ファンでしたから、小津さんが演技指導とはいえ『セッチャン、セッチャン』って、至近距離で親しげに話し合っているのはほんと羨ましかった。そんな光景を何十回と見て思ったのは、2人は好き合っているなぁと。小津監督が他の女優を見る目とは全然違いましたからね。原さんも、下心で近寄ってくる輩やビジネスに徹する会社の姿勢と区別して、男としても人間としても尊敬していたはずです」
原の小津映画出演作は、意外に少なく6本しかない。初めての作品は昭和24年の「晩春」だ。父である大学教授(笠智衆)と2人で暮らす娘(原節子)の話で、父の孤独を思って結婚できない彼女の愛情が細やかに計算されつくした演出で描かれている。
この作品は両者の人生にとって一つの転機となった。小津監督は、小津調と呼ばれる繊細で緻密な独自の作風を確立し、原は「日本女性の理想像」とのイメージを獲得したのだ。
小津映画とは「いかに原節子を撮るか」
続く第2作は、昭和26年の「麦秋」。同じく主人公の結婚問題を描く作品で、原は知的で堅実な娘を演じた。2人の結婚話が世間を賑わせたのは、この作品の撮影に入った頃だった。
「このところ原節子との結婚の噂しきりなり」
小津監督自身が日記の欄外にそう書き付けた。映画公開後の同年11月半ばのことだ。新聞も「(原節子が)テンタンとしておれたのは、結婚話がまとまりつつあるからである」(毎日新聞、同年11月4日)と書いたし、あるいは原に取材して「そのお話でしたら、あたくし大変迷惑していますの。現在はどなたとも結婚話は決っておりません」(朝日新聞、同年11月12日)と否定談話を掲載するなど、当時はちょっとした騒動になっていたのである。
だから、少なくともお互いが意識せざるをえない状況にあったことは確かであろう。再び織井氏の話。
「2人には共通点がある。孤独だったということです。原さんは紫色が大好き。紫の好きな人は、寂しい人、欲求が満たされていない人といいます。小津さんの作品は晩秋、彼岸花、古都鎌倉等、黄昏が漂う寂しさを感じさせる。また小津映画といえばローアングルですが、背の高い原さんを際立てて撮るにはローアングルが一番です。小津映画はいかに原節子を撮るかという映画なんです」
小津の通夜で号泣した「会田昌江」
そして昭和28年の第3作が、あの「東京物語」だ。原は戦死した夫の老父母の面倒を見る嫁をしみじみと情感豊かに演じた。原は小津映画の最良の演技者となり、また小津は原の持つ魅力を存分に引き出している。これはその後の作品よりはるかに完成度が高い。
やはりその頃、2人に監督女優の信頼関係以上のものが生まれたのだろうか。
「女優はその会社だけの大切な商品。それに手を出すことは会社にとって歓迎されざることです。2人はプラトニックラブだったと思います。それは小津さんの会社への配慮であり、原さんへの気くばりです。一方、原節子にとっては実らぬ恋を大切に自分の中にしまいこむことになった。そもそも映画界は好きで入った世界ではなく、引き際はずっと考えていたはずです。だから、ちょうど体調がすぐれぬことをきっかけに引退を決めたのではないでしょうか」(織井氏)
小津監督が死去したとき、通夜に現れた原節子は人目も憚らず号泣したという。記帳は本名の会田昌江。
これが公衆の面前に現れた最後と伝えられている。
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