大女優・原節子はなぜ隠遁生活を送ったのか…42歳で表舞台から去り、唯一あった結婚話の相手とは切ない共通点が

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小津安二郎監督との関係

 これに類するものとして健康上の理由を挙げる人がいる。たとえば、視力が衰えた、足を痛めて立ち芝居ができなくなった、などの話だ。原は、昭和29年に左目がはっきり見えなくなり、白内障と診断されて手術したことがあった。その前後の1年間は映画を休んでいるから、ある程度の説得力はある。

 また、原は親ドイツでかつ日本の軍部にも協力して戦争鼓舞映画に出演したから負い目を感じていた、という説もある。引退時期を考えるとさすがに時間がたちすぎているが、確かに彼女は戦前の右翼的運動の影響を強く受けていた。

 経済的な問題で映画会社から裏切りを受けたから、と言う人もいる。当時、芸能人を相手に金貸しをやっていた人間がいて、原はそこからお金を借りてがんじがらめになっていた、だが映画会社は助けない、それで嫌気が差した、というのである。

 どれをとっても、そうかも知れないとは思うものの、その程度である。ただの憶測の域を出ない。だがこうした曖昧な説に混じって、もう一つ、必ず出てくる話がある。小津安二郎監督との関係が引き金になった、というものだ。そして小津の死後は、彼に殉じて映画に出ない、とも言うのである。

引退は小津が死去する1年前

 小津は昭和38年、自身の還暦の誕生日に癌で死去した。彼女の引退はその1年前だから、死とは直接関係ない。だが、それでもこの話は、折にふれ出てくる。それは一時期、2人の結婚話が話題になったことがあるからであろう。

 実のところ、原節子の結婚話はその一つしかない。それが「永遠の処女」たる由縁でもあろうが、彼女には恋愛話さえほとんどないのだ。あってもささやかなものか、一方的なものか、荒唐無稽なものばかり。

 例えば、昭和12、3年頃に短距離のスプリンターだった矢沢正雄という人がいて原節子がプレゼントを贈ったとか、東宝の大プロデューサー藤本真澄が結婚しようと思っていたとか、古沢憲吾監督がオレに惚れていたと言ったとか。あるいはマッカーサーの愛人だったなんて話もあった。

 浮いた話がないのは、義兄の映画監督・熊谷久虎の存在がネックになった、という説がある。原の次姉の夫だが、15歳の原を映画界に入れ、その後生活もともにして、いわば後見人の立場で原を見守ってきた人物である。原は義兄を敬愛していた。だから交際するには、彼を納得させねばならなかったのだ。

 だが小津は別格である。娯楽映画全盛の中で、年に1本程度、芸術作品を作ることが許された稀有な存在だった。

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