【尾崎豊の生き方】実兄が「豊の曲は“反権力”などという捉え方はしていない」と語ったのは何故か

  • ブックマーク

自分は何のために生まれてきたのか

 ここで尾崎の簡単な経歴について触れておきたい。これまでの記述と重複する部分もあるが、御堪忍いただきたい。

 1965年11月29日、東京都世田谷区で生まれる。5歳上の兄が中学生の時、ギターを買ってきたが、指が痛くて部屋にほったらかしにしていたという。それを小学校高学年で不登校だった弟の豊が見つけて弾き始めた。中学の時には、もう詩作を始めていたそうである。

 81年、青山学院高等部に入学。同年に最初のオリジナル曲「町の風景」を制作し、82年にはCBS・ソニーのオーディションに合格している。83年12月、シングル「15の夜」とアルバム「十七歳の地図」をリリースし、芸能界デビュー。そして前述したように、翌年に高校を中退。85年にシングル「卒業」を発売する。このころ校内暴力や偏差値教育が社会問題となり、尾崎の歌が若者たちの共感を呼ぶようになった。尾崎はあっという間に「10代の代弁者」「反抗のカリスマ」となった。だが、86年には方向性を見失い、突然、無期限活の動休止を宣言、単身渡米するなど波乱続きの青春時代でもあった。

 尾崎はステージで、こんなメッセージを観客に投げかけたことがある。

「どんな困難にも負けないで、いつまでも夢を捨てないで、君たちへの僕からの精いっぱいの愛情を込めて、いつまでも歌い続けることを約束します」

「支配からの卒業」を澄んだ声で叫んだロックンローラー・尾崎豊。9年間の活動で残したのは71曲。その姿は「自分は何のために生まれてきたのか?」と真剣に自問する哲学者のようでもあった。

 音楽性は違うけれど、私はモーツァルトに近いものを尾崎に感じる。まさに天才なのである。はじめから自分流で突っ走って、力突きで死んでしまう――とでも言うのだろうか。モーツァルトは、その音楽に、晴れやかさの中に、一抹の哀愁があったが、尾崎の歌声にもどこか寂しさが感じられる。どこまでも果てしなく続く晴れた空の青さ、果てしなく広がる海の青さを見た時に感じる寂寥感に通じるものがある。

 だが、どんな天才であっても行き詰まることがある。尾崎の場合は言葉、歌詞がだんだんと見つからなくなってしまったのではないか。完全主義者と言い換えてもいいかもしれない。亡くなる最後の数年は、周囲の人とことごとく衝突し、ぼろぼろになったが、小説や写真詩集も書き、表現への情熱を失わなかった。だが、歌詞は次第に難解になり、音楽性より苦悩する文学性が目立った。

 ところで、尾崎の5歳年上の兄であるが、本業は弁護士である。現在、埼玉県弁護士会の会長も務めている。尾崎の兄ということでマスコミは注目。各社がインタビューしているが、「僕は、豊の曲は“反権力”などという捉え方はしていない」と答えているのが面白かった。その時、その時で、純粋な内面のアンテナに引っかかったものを表現している、というのである。

 純粋か。モーツァルトも純粋な人であった。だからこそ、死を急ぐのかもしれない。

 次回は漫談家のケーシー高峰(1934~2019)。「グラッチェ」「セニョール」「セニョリータ」……。次々飛び出す怪しげなあいさつ。黒板やホワイトボードを使い、クスリとするネタをまじえた医学漫談で笑いをとった。「ケーシーの後だけは高座に上がれねえ。あまりにウケすぎて落語をやれる空間ではなくなってしまう」。落語家の立川談志(1936~2011)も絶賛していたという昭和のお笑いの天才。その実像とは。

小泉信一(こいずみ・しんいち)
朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴35年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)、『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。

デイリー新潮編集部

前へ 1 2 次へ

[2/2ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。