64年東京五輪・コンパニオン秘話 皇太子夫妻にサインをねだる姿にIOC委員長は困惑…「当時の日本人は未来に惚れていた」
委員たちに振り回されて
「IOC委員が、会場にカメラやバッグを忘れたというものや、男性の委員が足にペディキュアを塗りたいという問い合わせもありました。自国の選手が予想外に早く負けてしまったため、帰ろうとしても車が来ないとイライラなさる委員もいてあわてました。IOC委員の対応に追われ、食事も満足にできずに走り回るコンパニオンも珍しくなかったんです」
原田さん自身も担当する賓客があった。ブランデージIOC会長と、イランのIOC委員パーラビ殿下である。総合馬術競技場のある軽井沢と東京を日帰りしたいという会長のために、パトカーが先導して、猛スピードで軽井沢との間を往復したり、パーラビ殿下が小型機に乗りたいというので仕方なく同乗し、富士山上空を旋回したこともあった。
原田さんにはそれ以外にも組織委員会から来る英文の文書を翻訳し、必要があるときには、儀典長を通したうえで行事にあわせた儀式の規定を吟味し、各コンパニオンに通知するという仕事も任されていた。朝7時に出勤しても帰途につけるのは、毎晩12時すぎ。当時、家には小学生と中学生の子どもがいたが、家事は家政婦に任せていた。
コンパニオンたちの“観戦”記
コンパニオンが競技を見ることができるのは、担当の委員に同行する時だけである。その場合、競技会場の貴賓室で見ることは原則禁じられていた。
「コンパニオンは、競技場の控え室にあるテレビモニターで観戦することになっていました。家族が来ていないIOC委員が、競技会場で担当のコンパニオンを自分の横に座らせようとなさるんですが、決まりを守らないコンパニオンをつまみ出していました」(原田さん)
そんな状態だから、競技を楽しめるような状況ではない。だがロシア人とのハーフでロシア語の堪能な先の加川さんは、ソ連の委員が英語を話せないことから、そばにいて一緒に試合を見てくれと頼まれることがしばしばあった。
「私が担当したソ連とボーランドはボクシングが強く、試合を嫌というほど見せられました。ボクシングを見るのは初めてで、パンチが体にめり込んだときの音には驚きました。最前列で見たので、とくにヘビー級は凄かった。ソ連のエメリヤノフがアメリカのフレージャーと戦った準決勝を見た時は、私の骨が砕けるのではないかと思ったほど。早く終わってほしかったですね。日本人ではバンタム級の桜井孝雄さんが金メダルを取りましたが、ソ連やポーランドの選手が決勝に残れなかったので見られませんでした」
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