64年東京五輪・コンパニオン秘話 皇太子夫妻にサインをねだる姿にIOC委員長は困惑…「当時の日本人は未来に惚れていた」

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 快晴に恵まれた1964年10月10日の旧国立競技場(東京・新宿区)で、94の国と地域の選手団が輝く笑顔を見せた。日本で初めてのオリンピック、64年東京五輪の開会式である。45年の終戦から19年、国際都市としての発展を世界にアピールすべく、政府は施設や交通インフラの整備を行った。人材面でも妥協はなく、「コンパニオン」として集められたのは良家の帰国子女だ。「セレブ」の代名詞として注目された彼女たちだが、実際の“おもてなし”は予期せぬトラブルが多発。閉会時には疲労困憊するほどの激務だったが、一方では「未来」を夢見る日本のパワーもひしひしと感じていた。

(「新潮45」2006年3月号特集「甦る昭和30年代 13の『怪』事件簿」掲載記事をもとに再構成しました。文中の役職と省庁の名称、年代表記などは執筆当時のものです)

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当時は「セレブ」の代名詞

 池田勇人首相の令嬢姉妹もいれば、元皇族のJOC(日本オリンピック委員会)委員長・竹田恒徳の令嬢姉妹もいた。そして大隈重信直系の姉妹に、安田生命会長の次女……。

 彼女たちは東京オリンピックで、コンパニオンに選ばれた女性たちである。

「私たちはコンパニオンの草分け的存在でした。欧米では私たちの仕事をホストやホステスと呼びますが、日本でホステスというと水商売のイメージが強かったので、当時東京都知事だった東龍太郎さんが、コンパニオンと名付けたのです」

 こう語るのは、当時34名のコンパニオンを率いたリーダーの原田知津子さんである。いまでは安っぽい存在になってしまった“コンパニオン”は、40年前、「セレブ」の代名詞であった。

大きく成長を遂げた日本をアピール

 東京オリンピックは、昭和39年10月10日に開幕した。国立競技場で行われた開会式には、94の国と地域から5500名あまりの選手が集結していた。その日は前日までの雨模様とはうって変って、NHKの北出清五郎アナウンサーが、「世界中の青空を全部東京に持ってきてしまったような」と実況するほどの快晴だった。

 国家の威信を賭けたスポーツイベントであると同時に、戦後、大きく成長を遂げた日本を世界にアピールする絶好の機会だった。河野一郎建設大臣は「汚いゴミをさらすのは日本の恥」と発言。それに触発されるかのように、政府は一兆円を超える予算を投じて、きれいな都市、便利な都市へと東京を改造していった。

 汲み取り式から水洗トイレに、ゴミ収集も指定された曜日に収集車が来るという現在の方法が取り入れられた。交通網も整備され、名神高速道路、首都高速道路、環状七号線、東海道新幹線、東京モノレールなどが完成。賓客を迎え入れる準備は万全に行われていった。

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