若貴兄弟の父・貴ノ花は「銭を取れる相撲」を取る力士だった…親子ほど年が離れた兄に鍛えられ、大輪の花を咲かせるまで

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大関を50場所務め、藤島部屋を創設

「角界のプリンス」と言われた貴ノ花がファン待望の大関に昇進したのは、昭和47年九州場所のこと。大学相撲から角界入りし、猛スピードで出世してきた、親友・輪島との同時昇進である。華のある2人の「貴輪時代」の到来だった。

 ところが、100キロを少し超えただけの細身の貴ノ花は、頸椎を痛めた影響もあり、大関の座を守るのが精一杯。その悲壮感あふれる土俵は、さらにファン心理を掻き立てた。

 日本中を熱狂させた初優勝後の名古屋場所では、肝炎で途中休場。カド番となった翌秋場所では、またも決定戦で北の湖を破り、二度目の優勝。

 貴ノ花は、若乃花のような横綱になり得るか?

 議論は真っ二つに分かれた。横綱になってほしいが、短命に終わってしまうのではないか? それなら、大関のままでよいのではないか?

 貴ノ花は名大関であり続けた。昭和55年秋場所7日目は、人気の高見山戦。土俵際、体重を乗せて貴ノ花を押しつぶそうとする高見山に対して、両足を限界まで開き、上体と髷が土俵につくほどまで残す、30歳の貴ノ花がいた。これが、人気者同士の最後の取組となった。

 大関を50場所務めた貴ノ花は、引退後、藤島部屋を創設。貴ノ花に憧れた力士志願者で部屋は活気づき、昭和63年春場所、実の息子、勝と光司が同時に入門した。2人はのちに、若乃花、貴乃花として、父が成し遂げることのできなかった「兄弟横綱」を張る活躍を見せた。この「若貴時代」が人々を熱狂の渦に巻き込んだことは、記憶に新しい。

武田葉月
ノンフィクションライター。山形県山形市出身、清泉女子大学文学部卒業。出版社勤務を経て、現職へ。大相撲、アマチュア相撲、世界相撲など、おもに相撲の世界を中心に取材、執筆中。著書に、『横綱』『ドルジ 横綱朝青龍の素顔』(以上、講談社)、『インタビュー ザ・大関』『寺尾常史』『大相撲 想い出の名力士』(以上、双葉社)などがある。

デイリー新潮編集部

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