若貴兄弟の父・貴ノ花は「銭を取れる相撲」を取る力士だった…親子ほど年が離れた兄に鍛えられ、大輪の花を咲かせるまで

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「俺は俺だ。若乃花の弟じゃない!」

 驚いたのは、引退して二子山部屋を興していた勝治である。

 満の入門を簡単には許せない――。

 それには、理由があった。数年前、4番目の弟・陸奥之丞が二子山部屋に入門。志なかばで、廃業するという出来事があったからだ。「師匠の弟」という存在は、部屋の力士にとって疎ましいものである。満に二の舞を演じさせることはできない。勝治の愛情だった。しかし、満の意志は固く、母親からも懇願された勝治は、しぶしぶ入門を許可。その条件が、「兄でも弟でもない」という厳しい言葉だったのである。

 昭和40年夏場所、初土俵を踏んだ満は、花田の四股名でグイグイ番付を上げていく。相撲経験はなかったものの、1年半後には幕下に昇進。「若乃花の弟」は、期待通りの出世を見せていた。

 師匠は稽古場でも、その他の場でも、必要以上に、満に厳しく接した。それが、他の弟子に対するけじめでもあったからだ。満は音を上げることはなかった。それは、自分で選んだ道だからである。だからこそ、「若乃花の弟」と言われることには、拒否反応を示した。

「俺は俺だ。若乃花の弟じゃない!」

 昭和43年初場所、幕下二枚目の満は5勝2敗で、翌場所の新十両を確実にした。初土俵以来、負け越しは一度もなし。18歳になったばかりの、若きスターの誕生だった。

いつも「銭を取れる相撲」を取る力士

 九州場所、18歳8カ月の満は新入幕を果たす。満の周りには、つねに女性ファンが群がっていた。しかし、そうしたファンに見向きもせずに、無愛想な対応をすればするほど、「花田さんって、カッコイイ!」とファンが増えていくのである。満はいつも孤独な思いをしていた。

 そんな時に知り合ったのが、日大相撲部出身の輪島博だった。合宿所近くの花籠部屋や二子山部屋へ稽古に来ていた輪島と満は、最初から気が合った。

「連れ立って、よく飲みに行ったものです。年齢は私が2つ年上ですが、彼は関取だからいつもごちそうになっていました。羽振りもすごくよかったしね……(笑)」

 輪島はこう当時を懐かしむ。その頃に知り合ったのが、女優の藤田憲子(現・紀子)さんだった。輪島と憲子さんの存在は、満の孤独を救ってくれるものだった。病気で十両に陥落していた満は、昭和45年初場所、幕内に復帰。その年、20歳の若さで憲子さんと結婚する。

 四股名は「貴ノ花」と改めた。貴ノ花の柔軟な足腰は、しばしば上位陣を苦しめた。そして、迎えた昭和46年夏場所、横綱・大鵬戦。優勝32回を誇る大横綱もすでに30歳。5日目、貴ノ花に敗れた大鵬は、次の時代を託す形で引退を表明する。

 また、昭和47年初場所の横綱・北の富士戦では、脅威の粘り腰を見せる貴ノ花に対して、「つき手」か「かばい手」かで物言いがつくなど、貴ノ花はいつも「銭を取れる相撲」を取る力士だった。だからこそ、目が離せなかった。

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