若貴兄弟の父・貴ノ花は「銭を取れる相撲」を取る力士だった…親子ほど年が離れた兄に鍛えられ、大輪の花を咲かせるまで

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実家の農園が全滅し相撲の道に進んだ兄

 昭和25年2月、貴ノ花こと、花田満が誕生した時、長兄・若ノ花(当時)の勝治は22歳。新入幕目前の力士だった。

 その年の夏巡業で、北海道室蘭市の実家に立ち寄った勝治は、生後半年の満と初めて対面する。大きな声で泣いている赤ん坊を、一番上の姉の子供と勘違いしたのも、無理はない。

「なに? 俺の弟!?」

 親子ほど年の離れた10人兄弟の末弟、満の誕生は、勝治には知らされていなかったのだ。

 満が5歳の時、父・宇一郎が他界。それから2年後、母や兄弟と共に、満は東京の勝治のもとに引っ越すことになった。その時、大関として活躍していた勝治は、一家の長として、家族を養う覚悟だった。

 弘前のリンゴ農家の長男として何不自由なく育った勝治が、相撲の道に進んだのは、台風の影響で農園が全滅したことが理由だった。

 花田家は、俺が守る。

 その一心で猛稽古に励んだ勝治は、家族を呼び寄せた1年後、29歳で横綱に昇進。栃錦と共に、「栃若時代」を築き、日本中のファンを熱狂させることになる。

兄が横綱であることを口外しなかった末弟

 さて、小学2年で東京の小学校に転校した満は、ひと言で言えば「問題児」だった。曲がったことが大嫌いな性格のため、「許せない」と判断すると、すぐに友達とケンカに発展。口よりも先に手が出るタイプだったため、母は小学校や近所に頭を下げて回っていた。

 満は徹底していた。横綱・若乃花が兄であることを、決して人には言わなかったのである。担任教師さえ、家庭訪問の時に初めてその事実を知ったほどだった。

 スポーツは万能だった。中学に進んだ満が選んだのは、水泳。水泳に打ち込むようになってから、不思議なことに問題行動はピタリと止んだ。得意は、クロールとバタフライで、特にバタフライでは、中学日本新記録をマークするなど、「水泳界のホープ」として注目されるようになる。

 満が中学3年の昭和39年は、東京オリンピックが開かれた年でもある。

「水泳選手としてオリンピックに出たい」

 また、聖火ランナーの1人に選ばれたことも、憧れに拍車をかけていた。そんな満のもとには、高校の推薦入学の話も来ていた。

 ところが、中3の満が選んだ道は、プロである力士への道だった。

「水泳じゃあ、メシが食えない」

 あくまで、自分の力で生きていこうという決意からの言葉だった。

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