日本人はなぜ桜が好きなのか――「世捨て人」西行も執着を捨てられなかった「桜への熱愛」
日本人が桜を愛好するようになったのは平安時代に入ってからといわれている。そして、その人気に拍車をかけたのが、平安末期から鎌倉初期にかけて活躍した歌人・西行(1118-1190)である。
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西行歌集研究の第一人者・寺澤行忠さんの新刊『西行 歌と旅と人生』(新潮選書)には、西行の桜への熱愛ぶりが紹介されている。同書から一部を再編集してお届けしよう。
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桜はもともと日本列島に自生していたものであるが、特に吉野山には、他の山より多く山桜が自生していた。
7世紀の末に活動し、後に修験道(しゅげんどう)の祖と言われた役小角(えんのしょうかく)は、仏教を好み、呪術をよくして、葛城山(かつらぎさん)に入って苦行を積み、吉野の金峯山(きんぶせん)、大峰などを開いた。そして金峯山寺をつくり、桜の木に蔵王権現(ざおうごんげん)の像を刻んで奉ったという。以来桜は神木として吉野に寄進されることも多くなり、そのこともあずかって、吉野は今日のような桜の名所となっていったのである。
春の花といえば、『万葉集』では多くの場合梅の花であるが、平安朝になると、桜の花を指すようになった。平安朝の貴族たちは桜の花を愛し、桜の季節には花見もしばしば行われた。勅撰集の春の部には、桜を詠む歌が多く採られている。ただこの時代の桜に対する愛好や花見の習慣は、あくまで上流階級、貴族の世界のものであった。一般の民衆が桜を愛好する風習は、まだなかったのである。
西行も若いころから桜をとりわけ愛し、殊に桜の名所である吉野にはしばしば花見に訪れ、庵を結んではしばし滞在し、桜を愛(め)でた。
「おしなべて花の盛りになりにけり 山の端ごとにかゝる白雲」(世はすべて桜の花盛りになったことだ。山の端ごとに白雲がかかっている)
「なべてならぬ四方の山辺の花はみな 吉野よりこそ種はとりけめ」(並々でなく美しく咲いている四方の山辺の花は皆、吉野から種をとったのであろうか)
「たぐひなき花をし枝に咲かすれば 桜に並ぶ木ぞなかりける」(比類のない美しい花を枝に咲かせるので、桜に比べられる木はないことだ)
桜の花の季節の到来を心からよろこび、あらゆる花の中でも桜に並ぶものはなく、吉野こそその根源の地だとする。「おしなべて」の詠では、桜の花を「白雲」に見立てている。山々を遠望し、その山々に桜が咲き競っていることを詠むいわゆる「丈の高い」歌で、「御裳濯河歌合(みもすそがわうたあわせ)」に自選し、『千載集』にも採られているが、勅撰集の中にあっても、少しの違和感もない秀歌である。
桜への執着心を捨てられなかった西行
「花に染む心のいかで残りけむ 捨て果ててきと思ふわが身に」(この俗世をすっかり捨てきってきたと思うわが身に、どうして桜の花に執着する心が、残っていたのであろうか)
出家は、すべての現世的欲望を断ち切ることである。だから桜の花に執着する心も放擲(ほうてき)したはずなのに、花を愛でる心は、依然として強く残っている。「花に染む」の歌は、さてどうしたものか、という自問である。花に対する執着心に困惑しながらも、そのような自分をどこかで肯定するのである。この歌は『千載集』入集歌でもある。
「身を分けて見ぬ梢なく尽くさばや よろづの山の花の盛りを」(この身をいくつにでも分けて、あらゆる山の桜の花盛りを、見つくしたいものだ)
「ながむとて花にもいたく馴れぬれば 散る別れこそ悲しかりけれ」(桜を眺めて、たいそう慣れ親しんできたので、いよいよ散って別れるとなると、まことに悲しいことだ)
身を分けてでも、花という花を見つくしたいと願い、いよいよ散るとなると、その別れがつらいという。これらの歌にみられる花に対する熱愛ぶりは、尋常一様ではない。このことは、同時代の他の歌人たちの歌と比較してみれば、ただちに了解しうることであろう。ここまでくると、花も人格を持った人間と同じである。というより、西行においては桜の花はほとんど恋人にも等しい存在であった。
このような性向は、天性の資質と言ってもよいものであろう。すなわちひたすら美を憧憬(しょうけい)し、遥か遠くに思いを馳せる、いわば浪漫的精神とでも呼んでよいものは、生涯を貫く西行の重要な性格の一部をなしている。
その憧憬の対象となる美の中でも、桜は最も象徴的なものである。あまりにも強い執着ぶりに、それは若き日に遂げ得なかった恋の、無意識の代償行為なのかとさえ思われるほどである。がしかし、出家後の単調な山里での修行生活の中で、長くつらい冬を過ごして、春を迎え、匂うばかりの色鮮やかな桜花を待ち迎える喜びが、生来の桜の花に対する偏愛の傾向をさらに助長したであろうことは、想像に難くない。そうした出家後の生活様式も、花に対する熱愛と無関係ではないであろう。
「花の下にて春死なむ」の影響
西行は「願はくは花の下にて春死なむ その如月の望月の頃」(出来ることなら、生涯愛してやまなかった桜花舞い落ちる木の下で、2月15日の釈迦入寂〈にゅうじゃく〉の日に、この世の生を終えたい)という歌を詠み、実際に、その願い通りの死を遂げた。
そのことに人々はいたく感動し、その事実が西行を主人公とするいくつかの説話文学を生むことにもなった。そうした説話類が広く読まれ、西行の桜を詠む歌が人々に広く愛唱されたことも大いにあずかって、日本人の中に桜を愛好する気風が次第に広く形成されていくことになったのである。
桜を愛好する風は、平安朝以来貴族文学の世界では認められることであり、その後の風潮も、ひとり西行の力によるものではむろんない。けれどもそれが武士の世界にまで及び、さらに広く、日本人全体の国民性にまで定着する上で、西行の与えた影響は少なからざるものがあった。
※本記事は、寺澤行忠『西行 歌と旅と人生』(新潮選書)の一部を再編集して作成したものです。