「トキューサ」よりも凄かった!? 西行の蹴鞠(けまり)の師匠「藤原成通」のトンデモ伝説

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 歴史上、蹴鞠の名人といわれた人物は他にもいる。意外なところでは、「百人一首」に登場する西行法師(1118-1190)もその一人。そして、その西行に蹴鞠を教えたのが「鞠聖(きくせい)」と呼ばれた藤原成通(1097-1162)である。
 
 西行歌集研究の第一人者・寺澤行忠さんの新刊『西行 歌と旅と人生』(新潮選書)には、藤原成通に関する驚きのエピソードが紹介されている。同書から一部を再編集してお届けしよう。

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300回連続で蹴った「鞠聖」

 西行の母は、監物源清経女であったが、この清経は蹴鞠の名手として知られた人でもあった。西行もまた蹴鞠の名手であったことは、堀部正二氏の研究によって明らかになっている。
 
 藤原頼輔の『蹴鞠口伝集』に西行の説が5か所にわたって引用されているのである。この頼輔は歌人でもあるが、蹴鞠の方面では、藤原成通の弟子で、西行の同門である。すなわち藤原成通は、西行の蹴鞠の師であった。
 
 蹴鞠は皮沓(かわぐつ)をはいた足で、鞠を蹴る遊びである。鞠は鹿の皮でできており、少し楕円形で、中は空になっている。

 貴族の屋敷の庭に鞠場が設けられ、その四隅に桜、柳、楓、松などが植えられた。上鞠(あげまり)は8人で行い、それぞれ木の下に2人ずつ控え、1人が3度ずつ蹴って左の人に渡していく。鞠を地面に落とさず、足だけを使って、8人の間を次々に渡していくのである。上鞠では、鞠は人の顔の高さぐらいにしか上げてはいけない。
 
 この後、個人競技に入る。その一つに員鞠(かずまり)がある。これは1人が鞠をいかに多く、連続してけり続けるかを競うものである。『古今著聞集』によると、藤原成通は、連続して300回蹴ったという。

成通が披露した神業の数々――

 藤原成通は承徳元年(1097)生れで、後に大納言にまでなった人物である。和歌や音楽にもすぐれていたが、とりわけ蹴鞠の方面では、並はずれた努力と才能で、「鞠聖(きくせい)」と呼ばれるまでになった。
 
『古今著聞集』や『成通卿口伝日記』によると、成通は鞠を好んで、蹴鞠の庭に立つこと7000日に及んだという。そのうち日を欠かさず練習したことは2000日で、その間、病気の時は床(とこ)に伏しながら足に鞠をあてて基本練習をし、雨の日は大極殿へ行って鞠をあげて練習した。家の中でちょっと鞠を上げることは時を選ばない。月の夜はもちろんである。夜も燭台のわずかな光を頼りに稽古を重ねた。

 そうした猛練習の結果、どのくらい技量が上達したか。ある時、大きな台の上に沓(くつ)を履いたまま登って鞠を蹴ったが、台の上に沓があたる音を人に聞かせなかった。鞠の音だけが聞こえてきた。
 
 また侍を7、8人並んで座らせて、端から順に肩を踏んで、沓をはいたままで鞠を蹴った。その中に法師が1人いたが、その人の時は、肩ではなく頭を踏んで通った。こうして肩の上を往復して、鞠を手にとって、「どう感じられましたか」と尋ねたところ、「肩に沓が当ったとはまったく感じませんでした。鷹を手に止まらせた程度の感じでした」と皆は答えた。法師は「平笠――平たくて浅い笠――をかぶったくらいの感じでした」と答えた。

「雲の中」まで鞠を蹴り込む

 また父のお供をして清水寺に参籠(さんろう)した時に、本堂の前面の舞台、いわゆる清水の舞台の高欄(欄干)を、沓をはいたままで鞠を蹴りながら西から東へ渡った。そして今度は東から西へ、同じように鞠を蹴りながら渡ったので、見る者は皆真っ青になった。父はそれを聞いて怒り、そんなことをする者があるかと言って、参籠している途中で成通を追い出し、1か月ほどは家にも寄せつけなかった。
 
 また熊野へ詣でた折には、後ろ向きで西より100回、東より100回、連続して蹴り上げて、その間一度も鞠を落とさなかった。
 
 高く蹴り上げることも、普通の人の3倍は高く蹴り上げた。ある日、鞠を高く蹴り上げると、空に登り雲の中に入って、見えなくなったまま落ちてこなかった。不思議なことであるが、この事は決して嘘ではない、と日記では強調している。

 また父が昔、仏師を召して仏像をつくらせたことがあった。その頃、成通卿はまだ若くて、庭で鞠を蹴り上げていたが、折あしく蹴った鞠が、開いていた格子と簾の間に入ってしまった。成通はすぐ続いて飛びこんできたが、父の前で無礼なので、鞠を足にのせて、その板敷を踏まないで、山雀(やまがら)がとんぼ返りをするように飛び返った。その様は、とうてい普通の人間とは思えなかった。「私の生涯でとんぼ返りをしたのは、この時ただ一度だけだ」と、後に人に語ったという。

「道」の思想へ

 こうした話が好まれたのは、道を尊ぶ――ひとつの道に専心、心を入れて修行すれば、常人の及ばない域にまで達することが出来る――ことが自覚され、尊ばれるようになったからである。

 鞠聖と呼ばれた藤原成通は、寝食を忘れるほどの厳しい修練の末、常人にはとても及ばないまでの技量の域に達したのであったが、平安朝もこの時期になると、こうした一つの道に専心打ち込むことが尊ばれる気風が次第に強くなってきた。

 平安朝における「もののあはれ」の優美で優しい情感は、時の経過の中ですべてが移ろい変化していく現実を前にして、「無常」の強い自覚を呼び覚まし、「無常」を乗り越えるものとして、芸能や武術方面においては、技量の上達と同時に人間としての完成を目指す「道」の思想が生まれてくる。茶道、華道、香道、歌道、書道、柔道、弓道、剣道、合気道、仏道、神道、武士道……。

 日本の文化は、かくして優しさと同時に勁(つよ)さや厳しさを併せ持つことになった。そして優美を基調とする美意識とこの厳しい「道」の思想がいわば表裏をなして、日本文化の根幹が形成されていくのである。

 成通は、そうした道の思想が形成されていく上で、いわば先蹤(せんしょう)となる存在であった。

※本記事は、寺澤行忠『西行 歌と旅と人生』(新潮選書)の一部を再編集して作成したものです。

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