【島倉千代子の生き方】巨額の借金、度重なる脅迫事件、自ら命を絶とうと思い詰めたことも…地方公演に出かけるとき、小さな茶碗を3つ持って出た理由

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残り少ない命を削って…

 振り返ると、6歳のときのけがでは47針も縫い、出血多量で危うく死ぬところだった。鉄棒にもぶらさがれず、体操の時間はいつも見学組である。自然と無口になった島倉さんに母がお風呂で歌を教え、励ましてくれたそうである。

 歌うことしか考えていなかった人だった。人を疑わず、誰に対しても優しく接した。ファンの投げたテープが目に当たって失明しかけたり、実印を預けたせいで多額の借金を背負わされて公演先まで借金取りが押し寄せたりと、運命の神様はどこまで意地悪すれば気が済むのだろう。

 しかし、そうした人生が87年の大ヒット「人生いろいろ」を生んだのではないか。

 軽快なテンポの曲調にのせ、「死んでしまおうなんて 悩んだりしたわ」と淡々と歌った。その歌詞を聴いて、ファンは島倉さんの人生をダブらせた。「人生いろいろ」は少し人気に陰りが出ていた島倉さんにとって再ブレークの転機となった。しかし、その後も93年に乳がんが発覚するなど波乱は続いた。

 そして2010年、肝臓がんを発症する。13年には肝硬変を併発し、6月から入院していたが、宮崎・延岡の公演には病院から会場に行った。デビュー60年の節目に向けて南こうせつさん(74)に作曲を依頼した新曲は、一時退院して自宅で録音した。

 新曲「からたちの小径」である。自宅には亡くなる3日前、本人の希望で機材が持ち込まれたという。島倉さんの声はかすれていたが、立ち会った人たちは残り少ない命を削ってまで歌いあげる「執念」を感じたそうである。レコーディングできたこと自体、奇跡だった。

「島倉さんは幾多の試練をエネルギーに換え、人生の最後に勝った」と都はるみさん(75)は私の取材に応じて答えた。懸命なその姿を見て、歌の神様も天から舞い降り、応援したにちがいない。

 紫色が好きだった。見る人をどこか物思いに誘う色である。

 次回は、1992年に26歳で急逝したロックミュージシャン尾崎豊さん(1966~1992)。大人社会や管理教育への反抗、自由を訴え、「10代の教祖」「若者のカリスマ」などとたたえられ、今なお若い世代にも響く“オザキ”。4歳年上の筆者が、居場所がなく、孤独に葛藤していた少年時代を重ねる。

小泉信一
朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴35年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。

デイリー新潮編集部

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