【島倉千代子の生き方】巨額の借金、度重なる脅迫事件、自ら命を絶とうと思い詰めたことも…地方公演に出かけるとき、小さな茶碗を3つ持って出た理由

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哀調を帯びたラテン音楽のような味わい

 島倉さんの経歴について簡単に触れたい。

 1938年3月、東京都品川区生まれ。高校在学中に日本コロムビアの歌謡コンクールで優勝し、55年、「この世の花」でデビュー。57年には「東京だョおっ母さん」が大ヒットし、NHK紅白歌合戦に初出場した。60年には美空ひばりさん(1937~1989)と一緒に「つばなの小径(美空)/白い小ゆびの歌(島倉)」を発表。89年にひばりさんが亡くなるまで、本当の姉妹のような交友が続いた。

「からたち日記」などで紅白には86年まで30年連続で出場した。翌87年に出した「人生いろいろ」が大ヒットし、日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞。可憐な歌声は若い世代にも人気を呼び、88年に再び紅白に出場した。紅白出場は計35回にのぼる。99年には紫綬褒章を受けた。

 とまあ、華やかな経歴である。生涯に発表した曲は2000。これほど長く芸能活動を続けた歌手は、ひばりさん亡き後、島倉さんしかいなかった。ひばりさんが太陽なら、島倉さんは月。静かに見えるが、照らすところは照らす。奥ゆかしそうに見えつつ、芯は強い。そんな人だった。

 震えるような歌声が叙情的な世界を醸し出した。石川県金沢市にある「金沢蓄音器館」で島倉さんのデビュー曲「この世の花」の宣伝用SP盤レコードを聴いたことがあるが、島倉さんの声のぬくもりや深み、優しさがよみがえってくるほどの音源だった。島倉さんは当時16歳。こんなにも清らかな歌声だったとは……。

 多くの日本人が少女・島倉千代子の一途な姿に心を打たれたに違いない。

 没後、同世代の写真家・浅井慎平さん(86)は、私の取材にこんなことを言っていた。

「ラテン音楽のような味わいがあった。哀調を帯びた明るさなのです。日本の戦後史に寄り添うように生きてきた歌手だった。突然私たちの前から姿を消し、その存在の大きさに改めて多くの日本人が気づいたのではないか」

 たしかに、歌手としては順風満帆だった。が、私生活は波乱に満ちていた。失明寸前の大けが、結婚と離婚、巨額の借金、姉の自殺、乳がんの手術……。度重なる脅迫事件もあった。自ら命を絶とうと思い詰めたこともあった。

 東京・赤坂の自宅は抵当に入り、数百点の着物も人手に渡った。歌い続ける毎日。夜になると声が出なくなることもあった。

「つらいとき、部屋の壁やタンスに忍(しのぶ)という字を指で書きました。『忍、母さんを助けて!』と祈るような気持ちでした。ええ、忍はあの子たちの名前です」(朝日新聞1986年8月22日夕刊)

 中絶した子どもたちのことである。国民的人気者になった島倉さんにとって、理由はどうあろうと、この事実はなかなか公にできないことだったのだろう。何より、自分はその気でも、周囲は許してくれない。その重荷が島倉さんの心にのしかかっていた。

 地方公演に出かけるとき、島倉さんは高さ10センチほどの虚空蔵菩薩と小さな茶わん3つを持って出たという。「産めなかった子どもたちに、お水をあげたいのです」。島倉さんは周囲の反対を押し切って、正式に供養も済ませている。

「忍、ごめんなさい。これからは母さん、いつも一緒よ。母さんの子でよかったと思ってもらえるように頑張るわ」

 その純粋な気持ちは、生涯、忘れることがなかった。

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