【小澤征爾さん死去】訃報に際しNHKが触れなかった「N響事件」 “世界のオザワ”の原点、1962年の大騒動を振り返る
恩師からのお願い
「N響事件は、多くの文化人やマスコミが、様々な見方で論評しています。そのなかで、もっとも正鵠を射ているように思うのが、小澤さんの恩師で、当時、桐朋女子学園校長だった生江義男さんの論考です」(音楽ジャーナリスト)
生江義男(1917~1991)は、通信簿や入学筆記試験を廃止し、のちに桐朋学園理事長をつとめる名物教師だ。山口瞳の小説『けっぱり先生』のモデルでもある。
その生江校長が、事件の最中に〈小沢君の音楽を聞いて下さい 一教師のねがい〉と題した文を、朝日新聞に寄稿している(1962年12月25日付)。
1952年、桐朋女子高校に「男女共学」の音楽科が創設された。
〈それまでの女子だけの学園に、男の子がはいってくるということは、PTAの間に、大きな波紋をまきおこした。そうした最中に、小沢君は、おかあさんに連れられて受験にやってきた〉
生江校長は、面接で、女子高に初めて男子が入ることの大変さを説明した。すると、〈彼は、おかあさんをかえりみながら、舌をペロリとだしてうなずいた〉という。
〈それからの音楽科は、ある意味で彼を中心に動いたといっても過言ではない。しかし、よくいたずらもした。遅刻もまた常習だった。たのまれれば、いやとはいえない彼の性格は、よく友だちのことまでひきうけては問題になった。/注意されると、ニッコリ笑って、手を頭にあげて恐縮する。が、信念を貫くときの彼の行動は、いかにも自信満々としている〉
遅刻の常習、頼まれればいやとはいえない、そして自信満々な高校生……生江校長は〈いま、NHK、N響に対しての、彼の言動も、学生のころと少しも変わりはない〉として、こう綴るのだ。
〈どうして、N響の先輩の人びとが、愛情のこもった苦言や、指導をしてくれなかったのだろうか。おそらく、彼は、ニッコリと笑って、手を頭にあげて恐縮したかも知れない。(略)若き天才としての小沢と同時に、人間的にも、芸術的にも未完成な(それだけに無限の未来が予約されるのだが)小沢の両面を、わけてとりあげたところに、今度の問題が胚胎していたのではないだろうか〉
「N響事件の本質は、これに尽きると思いました。まだ世の中を知らないような青年を招いた以上、N響は、その責任を負うべきだったのです。オーケストラは教育機関ではないといわれればそれまでですが、だったら、呼ぶべきではありませんでした。ある意味、このときの小澤さんは、未熟な日本クラシック界の犠牲者だったのではないでしょうか。このあと、小澤さんがN響を指揮するのは1995年1月。実に32年後のこととなります」
生江校長は、一文の最後を、こう結んでいる。
〈日本での新しいプラスを小沢君に背負わせて、もう一度、彼を、世界の舞台にたちもどらせてほしい。私の願いはこれにつきる〉
残念ながら生江校長の願いは成就しなかった。「もう一度たちもどる」どころか、世界最高の指揮者となってしまったのだから。(文中敬称略)